【小田原宿】旧東海道の旅⑦ ういろう 招太寺 早雲寺 甘酒茶屋 身代わり不動尊【箱根宿】

どうも、さかもつです!

前回は平塚宿から大磯宿を経由して小田原宿まで辿り着きました。
そしてついに神奈川県内最後の宿場となる箱根宿を目指します。
箱根の山越えは相模国内の宿場で最難易度の道のりとなります。
今回はそんな期待と登り切れるのかと言う不安がありますが気張っていこうと思います。

さっそく旧東海道の旅7日目いってみよう!

 

記事内アド

旧東海道の旅 7日目 小田原宿~箱根宿

本日の距離は15.8kmという事でそこまで長い距離じゃありませんが、ここ最近歩いてきた道のりは平であったことを自分は忘れていません。

今回は距離数こそ大したことはありませんが箱根宿に至るまでの道のりはほぼほぼ登り坂であることを覚悟していかなければなりません。

果たして自分の足腰で箱根の山道を攻略することが出来るのかっ!?

前回のおさらい

その前に前回のおさらいをチャチャっとしちゃいましょう。
前回は平塚宿を出発して大磯宿を目指しました。

途中高麗山を右にみて高来神社や旧街道の松並木を進みました。

今にも倒れそうな松の巨木を潜り江戸方見附跡に到着。
平塚と大磯は本当に目と鼻の先と言っていいくらい近かったです。

大磯宿内は曽我兄弟を祀る延台寺や明治の著名人たちの別荘やゆかりの場所が多く存在した。これは大磯が当時別荘地として人気を博していたからと言われている。

大磯宿を出て明治記念大磯邸園という旧大隈邸や陸奥邸の跡地を公園にした場所や旧吉田茂邸を見学した。

当時の屋敷の基礎部分を改修しており珍しい工法が用いられていた。

両公園共に日本庭園が素晴らしく無料で見学できることから大磯へ遊びに行った際は立ち寄ってみる事をお勧めする。

その後はひたすらに小田原を目指すが途中二宮の地で間の宿があった場所を見学したが現在は面影は残っていない。

ただ箱根駅伝のコスプレスポットである二宮をこの目で見る事が出来て満足だった。

酒匂川は思ったより浅そうで川幅自体はとても広いのだが船で渡ると言う感じでは無かった。実際舟渡よりも人足によって担がれたり輦台と言うものに座って渡ったとか。

時間も無かったのであまり小田原宿を見て回れなかったので小田原宿だけをピックアップした記事を今度書きたいと思う。

 

小田原宿~箱根宿までの主な史跡・遺構

小田原宿内

・小田原城
・報徳二宮神社
・箱根口門跡
・ういろう
・居神神社
・大久寺
・板橋見附

小田原宿~箱根宿

・量覚院
・常光院
・板橋地蔵尊
・小田原用水
・日蓮聖人霊跡
・風祭一里塚
・招太寺
・三枚橋
・白山神社
・早雲寺
・弥坂湯
・正眼寺
・箱根
・松の茶屋 一里塚跡
・猿沢の石畳
・福寿院
・鎖雲寺

・須雲川公衆トイレ
・女ころばし坂
・割石坂
・畑宿本陣跡
・畑宿一里塚
・守源寺
・石畳橋
・西梅子坂
・樫の木坂
・樫の木平
・見晴茶屋
・猿滑坂
・追込坂
・甘酒茶屋
・旧街道石畳
・天ヶ石坂
・箱根八里の碑
・権現坂
・身代わり不動尊
・葭原久保の一里塚
・箱根宿の杉並木
・箱根関所

小田原城~板橋口

8時30分に小田原駅に到着。当初は小田原城は見物せず箱根宿を目指そうと計画していたがふと考えた。

小田原城行ったことなくね?

なんだかんだ言って小田原城を見学した事は人生で一度も無かったような気がするので折角だから歩いてみる事に。

綺麗に整備された通路を進むとすぐに本丸へ辿り着きました。

途中小田原合戦の説明書きがありましたが自分の中では随分長い事戦っていたイメージだったのですが開戦から3か月で勝負はついていたんですね。

裏手の方からふもとに降りると報徳二宮神社がありました。

こちらの神社はその名にある通り二宮尊徳を祀った神社になっています。小学校の校庭に居る二宮金次郎が後二宮尊徳と名を改める訳です。

神社の由緒を読むにこの地に築かれたのは明治27年で120年程の歴史があります。

ここまで訪ねた寺社は東海道の歴史あるいはそれよりも古くから存在する為、この報徳二宮神社は少し歴史が若く感じるところではありますが、祀られている神様がなじみ深い人物なので逆に分かりやすいと言えます。

報徳二宮神社を後にして少し歩くと三の丸小学校と箱根口門跡が見えてきました。

この場所は元々小田原城の三の丸に当たる場所らしいです。

地元住民との協議をして進めてきた三の丸小学校建設とありますから史跡に小学校を置くのはどうなのかみたいなやり取りがあったのでしょうかね?

後に歴史と調和した街づくりが評価され都市景観大賞を受賞したとありますね。

確かに小田原城を意識した外観になっていてとても良いと思いました。

日本を感じる瞬間ですね。

すぐ隣には箱根口門跡の石垣があります。

江戸時代初期まではこの箱根口門が大手門(正門)であったらしく立派な枡形門であったようですが現在はその一部が残っている状態です。

それでも十分歴史を感じられますがね。

東海道へ戻ってまいりました。

とは言っても前回の江戸方見附からは結構離れていて、結構端折ってしまっているのですが最早振り向かぬ!!このまま箱根路を突き進む!!!

意気込んでいると立派な建物がありました。

地元の人たちにはおなじみのういろうですね。外郎とかいてういろうと読みますがお店の表記はひらがなですね。

元々京都にルーツのある外郎家の子孫を北条早雲が招いて今のお店の場所に屋敷が建てられたようです。

薬を作って販売していたようですが現在はお菓子と薬を売っている様で店内ではお菓子を食べれる喫茶店もあるようだ。

通りを挟んでこちらにも地元では有名なちんりうがあります。

梅干しなどの漬物やお菓子を販売している様です。

江戸末期の小田原城で最後の料理長を務めた小峯門弥と言う人が作った料亭「枕流亭」(ちんりゅうてい)が起源だそうだ。

さてまだここは小田原宿内でありますので見てみたい場所は沢山あるのですが目の前に見えるあの山を越えていかなければならないので少しでも前に進まなければと歩みを進めていると居神神社が現れました。

お参りを済ませて境内を見ていると勝って兜の緒を締めよの碑と言うものがありました。

お恥ずかしながら勝って兜の緒を締めよという格言は知っていましたがそれが北条氏綱の言葉であったことを知りませんでした。

1つ勉強になりました。

板橋口へ到着しました。

現在は全く持ってその面影はないように思えますが立て看板を見る限り場所はここで間違いなくそれなりにしっかりとした見附であったようですね。

板橋口~三枚橋

ついに小田原宿を抜けてここから箱根宿を目指します。
また本道からそれて進んでまいります。
ただここから少しの間スマホが不具合を起こして写真が撮れていない事が多く少し情報端折ります。

見附跡から少し歩くと、常光寺という浄土宗のお寺が現れました。

境内にお邪魔してみると抱き上げ地蔵尊が目を引きます。

その隣には板橋地蔵堂という場所があり金竜山 宗福院 地蔵堂 板橋地蔵尊というらしい。曹洞宗の寺院で、めちゃデカ大黒天の木造があります。

新道と再び合流すると早川が見えてきます。
その早川から取水を行い小田原城下に住む住民や堀の水として使用された。
周辺は整備されていて散策しやすいと思います。
今回訪れたのは秋でしたが夏頃は川遊びをする子供たちで溢れかえって居そうですね。

あまり上手くとれていませんが早川の水はきれいでしたよ。

前方に見える箱根の山を登るのかと思うと何やらワクワクしてきました。

東風祭の信号の角にあるのは小田原が誇る名産、鈴廣のかまぼこで有名な鈴廣が運営するかまぼこ博物館です。

こちらは箱根駅伝の中継所にもなっていますので見覚えがあるのではないでしょうか?

出来立てのさつま揚げを食べれたりかまぼこづくりを体験出来たり地ビールが飲めたりおしゃれなカフェがあったりと盛りだくさんの様です。

時間があれば寄ってみたかったんですが泣く泣く先を急ぎます。
旧街道はかまぼこの里がある通りではなく一本裏を通っています。

途中のり面に謎の扉が2つ・・・・・これゲームだったら確実にレアアイテム手に入る系の奴だ(笑)

21番目風祭の一里塚に到着です。

20番目の小田原山王原の一里塚は小田原宿の江戸方見附の向かいにあったようなのですがピックアップ出来てないようですね。
次の機会に小田原へ来ることがあればチェックします!

次は黄檗(おうばく)宗の招太寺です。
禅宗の1派のようですが、自分は初めて知った名前でした。
禅宗で言うと曹洞宗と臨済宗は知っていたんですがまだまだ知らない事がありますね。

こちらの寺院は総門を潜って本道を過ぎて少し山道を進んだ先にあるしだれ桜が有名なようです。
今回は季節も外れていると言うことで本堂によってそのまま先を急ぐことに。

総門横にお地蔵さまが6体も鎮座しています。
この地域には地蔵信仰が根強くあるようで、その影響か割と至る所にお地蔵さまがいるように感じます。

小田急線入生田駅を後ろにみて先を進みます。
ここから箱根湯本までは単線となっているんですね。

一度新道と合流しますがまた脇道を進みます。


少し入ったところに牛頭天王神社入口と書かれた色あせた看板がありました。

小田急線の線路下をくぐり進んでいくことになりますが、ひっそりとしていて雰囲気はあるのですが階段の勾配がきつく道のりは割と険しいのでご注意ください。

小田急線を上から見る事もはたまた下から見る事も出来るスポットです。

山崎古戦場の碑が建つ場所で改めて新道と旧道が合流します。
この古戦場は戊辰戦争の際に幕府方と新政府型に付いた小田原藩との間で激しい戦闘が行われた場所の様です。

そこからは緩やかな坂道を登りながら進んでいくと眼前には三枚橋と箱根湯本の駅が見えてきました。

とりあえずここから箱根の山を攻略していくわけですので気合を入れているとちょうど新型のロマンスカーが通り過ぎていきました。

白山神社~権現坂

箱根湯本の駅方面は新道となっていて明治以降はそちらが表街道として整備されていったようですが、江戸時代はこれから進む道が本道になります。

箱根駅伝等で映る箱根路は表街道ですがこちらの旧街道はおそらくなじみのない人が多いのではないかと思われます。

歩きだしてすぐにセブンイレブンと何やら人だかりが出来ているお店がありました。

ルッカの森というお店で、箱根の森バウムが人気なようです。
季節的にお土産に買って帰る事も出来ましたが荷物を増やすのは下策とみて今回は断念。

ホームページ見ましたけど、これ絶対うまい奴じゃん・・・。

ルッカの森 – 和菓子菜の花

ほどなくして白山神社に到着しました。
こちらには有名な大岩が存在します。

逸話としては天照大神の伯母にあたる菊理媛(くくりひめ)と言う神様がこちらにある大岩に降臨して無病息災・安寧秩序を守ったという。

近年では縁結びの神様としても信仰を集めているようですが、こちらの白山神社では他にも関東大震災や豆相地震でも大岩が微動だにしなかったことから「受験」・「商売」・「勝負」の神様としても信仰を集めている様だ。

更に時は戦国時代まで遡り、この大岩を背に豊臣秀吉が休憩をしたという話まである様です。
これはあやからねばと言う思いで大岩を拝んでまいりました。
神社自体は物凄く手入れが行き届いているという訳ではないですが山深いこの地にあって良い状態を保っているように思いました。

向かいには小田原北条5代の墓が安置されている臨済宗の寺院、早雲寺があります。
こちらは白山神社から見て東海道を挟んで少し下がった位置にあり拓かれた場所にあります。

静かな佇まいと言う表現が正しいかどうか分かりませんが境内はきれいに整備されており庭園も綺麗でした。

小田原北条5代の墓は寺の奥にあります。
小田原北条氏は断絶していたと思っていましたが、そんなことは無く江戸時代を通じて存続していたようです。

こちらの寺院は豊臣秀吉による小田原征伐の際に豊臣方の本陣が置かれ、石垣山一夜城が完成した際に焼き捨てられたようです。

当時にあっても関東屈指の禅刹として威容を誇っていたようですが、焼き果たされてしまった訳ですね。

小田原北条氏に所縁があったのか、強い支援関係にあって焼き果たすことで戦意を削ぐ移行があったのか・・・何にしても残念な話だ。

弥坂湯という銭湯がありました。
グーグルレビューだと結構高評価なんですよね。

隣に駐車場の様なスペースがありましたが弥坂湯さんのスペースではないようなので注意です。
少し手前の早雲寺の所に駐車場があるのでそちらに車を止めて歩けばすぐなので湯冷めすることなく行けると思います!

また少し歩きますとこちらにも臨済宗の寺院である正眼寺があります。
前回記事にも登場した曽我兄弟を供養する曽我堂があります。

さらにクソでかいお地蔵さまがいらっしゃいます。

湯本茶屋一里塚跡があります。
こちらは22番目の一里塚になります。

現在では裏街道となってしまっている旧東海道ですが道路自体はしっかりと舗装されていて綺麗なんですが、問題は歩道が無いと言うところなんですよね。
路側帯すらないので車道を歩いている様な感じなのですが、まぁ車は割とスピード出してきますしバイカーたちもガンガン来ますし正直怖いですが何とか進みます。

途中うまい棒が落ちていました・・・・誰が落としたん(笑)

臨済宗の寺院、鎖雲寺がありました。
ここまで連続して臨済宗が続いていますね。
ちょっと前の招太寺も臨済宗ではないものの禅宗ですから箱根地方は禅宗が多かったのかな?

鎖雲寺を越えてすぐの所に須雲川公衆トイレがあります。
徒歩で箱根宿まで踏破を考えている人は間違いなくこちらで用を足しておいた方が良いです。
車の方もバイクの方も結構利用していました。
空いていれば良いですがこの先の道で渋滞を発生する可能性もありますので、車両で来る方は後続車に十分注意して停車し利用する事をお勧めします。

須雲川自然探勝歩道と言う場所がありまして、こちらを旧東海道と勘違いして突き進んでいきます。
ちなみに女転し坂と言う碑があります。
女転ばしではなく「女ころし」なんですね。
この付近は急な坂道が続き、馬に乗った女性が落馬して亡くなったことからこの名前が付いたとか。
馬が急に暴れて落っこちたとかそういう状況ですかね。

自然探勝歩道は中々スリリングな感じで、夏に来たら虫がすごいだろうなぁなんて想像しながら先を進みます。

途中水道管が露出している部分がありました。
テープに1986年と書かれているので36年前の水道管になりますね。(歩いた当時は2022年の為36年と記載)

自然に囲まれて少々不安になりそうなところですが、これだけ人工物が目に入ってくると人の手が入っている事が分かり一気に心強くなります。

そう思っていると須雲川まで辿り着きました。

川を渡れという事ですが橋代わりが腐った丸太が渡されただけの物で一気に危険地帯に(笑)

まぁ足場を気にすれば水深は浅いので心配は要りませんが、これは冬に差し掛かる季節の事なので夏頃は水深や水流も増えているかもしれませんので十分注意してください。

まぁ渡り切った後にもう少し先を往けば立派な橋があったことに気づき、視野の狭さを嘆きましたが・・・・(笑)

東海道に合流して先を進むと国指定箱根旧街道が現れます。

今までは舗装道を歩いてきたので、ついに当時の人々と同じ感覚で街道を歩けるぞという気持ちで超テンションが上がっております。

地面に敷き詰められた石畳を踏みしめながら先へ進みます。

途中石畳の構造についての案内図がありました。

所々傷んでしまっていて形を留めていない部分もありますが、それでも綺麗に現存している部分もあって当時を偲ぶことが出来ますね。

途中不穏な現場にも出くわしましたが気にせず先を急ぎます。

また改めて石畳の構造を伝える看板がありましたが、排水設備として機能を持ち合わせていて計算された構造となっている様です。

現代の日本の土木技術もなかなかにレベルが高いですが、古の土木技術も侮れません。

再び現在の東海道に合流しました。

ここは畑宿という間の宿でこちらは茗荷屋本陣と呼ばれた場所になります。

こちらの間の宿は小田原宿から箱根宿までどうにもたどり着けなかった人たちが宿をとったり三島宿から小田原宿へ向かう道中に小田原宿まで辿り着けそうになく諦めた旅人たちに使われたのではないかと勘繰りますがどうでしょうか?

茗荷屋本陣の日本庭園はとても見事であったと伝えられていて幕末の有名人ハリス領事館もこちらの日本庭園をみて感嘆したとか。

明治時代になって京から東京へ遷都となった折に明治天皇も小休されたようです。

芦ノ湖までの道のりは中間地点ちょっと手前辺りまで来たでしょうか。

途中東海道53次の宿場を掲示した場所がありましたが日本橋から初めて今日ついに箱根の関所に至る訳で感慨深いものがあります。

というよりもまだまだ先が長いですねこりゃ・・・(笑)

畑宿部落の説明書きの裏には公衆トイレがあります。

須雲川公衆トイレからここまではそう距離がある訳ではありませんが、三枚橋から歩いてきたとなるとここらで用を足してくなる頃では?

私はもちろん用を足しました。

日蓮宗の寺院、守源寺です。

こちらは幾度となく災害によって本堂を失い、昭和5年の豆相地震後にようやく再建されたものが今に至っている様です。

仏像類も延宝とか享保なんていう元号が刻まれた物がありましたよ。

さて守源寺のすぐ隣に23番目の一里塚である畑宿の一里塚があります。
こちらは当時の姿をそのまま残した状態で存在しており、なかなか圧巻ですね。

当時の旅人たちは一里塚に植わる榎や松の木陰を利用して休憩をしたようですが、ここ畑宿は間の村として栄えていたからわざわざ一里塚で一息つく必要はなかったかもしれませんね。

この辺りから日本人よりも外国人の方が多くみられるようになります。
この旅自体は2022年11月の事ですからそれなりにコロナウイルスが多かった時期です。
外国人の人たちがこんなに多く東海道を歩いていると思っていなかったので自分としてはビックリした。

この年(齢33)まで生きてきて自分も歩き切ったことの無い道のり。
まずは自分も踏破しなければと勝手にやる気を出して歩みを進めます。

途中外国人の方々に道を尋ねられたりしたのですが自分も初めて歩くのでスマホ片手に一緒になって目的地探したりしましたよ。

まぁ英語は喋れないので身振り手振りね・・・・(笑)

ここからは石畳の道を進んでいくことになります。

途中の説明書きでは江戸時代延宝8年(1680)にこの旧街道を石畳の道として整備する事となったようですが、それ以前は雨や雪が降ると膝まで埋まるようなぬかるむような悪路となったようです。

竹を引いて足が沈まないようにしていたようですが竹の調達も費用がかさんだことから石畳の道を普請したという事ですね。

橿木坂(かしのきさか)という坂の説明書きがありました。
ここの坂はとても険しく、多くの詩人が歌に残している様です。

その詩の中に・・・・・

「さかをこゆればくるしく どんくりほどの涙こぼるる」

と言われる程越えていくのが大変だったのでしょうね。

樫の木の実であるどんぐりと涙を掛けた訳ですが米粒程の涙ではなくどんぐりほどの涙と言うところがその辛さを余計に表現している訳ですね。

現在は人工物の階段が道路の脇に造られているのでそちらを登って行けばよいのですが当時は先程と同じような山道に石畳が敷かれている様な状態で尚且つ急こう配という事もありかなりきつかったでしょうね。

この階段も段1つ1つに高さがありますし距離もあって結構足腰にきました。

途中雲助(くもすけ)についての説明書きがありました。

そもそも雲助とは何ぞやという話ですがおそらく自分たちの親世代の頃は軽蔑まがいな使われ方をしていたかもしれません。

雲助は主に出所の知れた浮浪人が旅人たちを籠に乗せて輸送したり荷物を運搬する仕事を行った人たちを指すんですね。

ただ中にはたかりやボッタくりを行って脅しをかける等の無頼の者も存在したことから軽蔑語として染み付いて行ってしまったことも事実の様です。
見ての通りこんな山道を駕籠に乗せて目的地まで運び届けてくれる訳ですから大変な仕事だったでしょうね。

今の世の中も同じじゃないですが、大体の人たちはみんな真面目に働いている訳です。
そんな中数少ない不真面目な者たちが悪さを働いてしまう。
結局今も昔も人間の本質は変わっていないのかもしれませんね。

少し開けた場所から見えるのは小田原の街並みでしょうか?
右側の方には海が見えますね。

途中親子で旧街道を巡っているであろう家族と挨拶をかわしました。
お子さんは5歳くらいでしょうか。
お父さんとお母さんを先導して随分張り切っていましたね。

とりあえず甘酒茶屋を目指してひたすら前を進みますが変わらぬ景色に少々嫌気がさしてきました(笑)

殆ど紹介してきていないんですがこの箱根路には沢山の坂があります。

この猿滑坂はいかに猿でもたやすく登れぬ坂として由来となったようで、確かに階段もきつい勾配になっています。

途中の史跡でも記載がありましたが関東大震災と豆相地震の災害で石畳も随分埋没してしまったようですね。

そこから先を進むと笈の平という史跡に辿り着きました。
ここは親鸞(浄土真宗の宗祖)が弟子たちに東国の教化を託した地とされています。

ついに甘酒茶屋に到着しました!

力餅でも食ってもうひと踏ん張りって思ったんですが、非常に大繁盛しておりまして時間がかかりそうだと。

タイムスケジュール的にも押していたので涙を呑んで我慢したのでした・・・・

さぁあともうひと踏ん張りというところまで来ましたがお玉が池への訪問は取りやめて旧街道を進みます。

クマ出没注意の札がありました。
居てもおかしくないよな(笑)

石畳の道が足腰に結構響いて、休憩の回数が増えていきます。
この辺りに来るとまた外国人の旅行客の方が増えてきて片言の日本語で挨拶をしてくれます。
おそらく芦ノ湖の方から甘酒茶屋辺りを目指して歩いてきているのだろうと推測されます。

実際はナンセンスなのかもしれませんが石畳を歩くより脇の土道を歩いた方が膝へのダメージが緩和されました。

権現坂にたどり着きました。

ここが最後の坂になるようで写真の撮り方によっては芦ノ湖がうっすらと目の前に見えてくるようですね。
昔の人々も小田原からの難所を越えてこの権現坂で芦ノ湖を目にしたときは感慨深い気持ちになった事でしょうね。

さてついに箱根町へ到着いたしました。
この日は土曜日という事もあり車も多く沢山の観光客でにぎわっていました。

関所方面に向き直ると杉並木が見えてきました。

ちなみにこの杉並木は箱根宿が置かれたころ旅人たちに木陰を与えるために幕府によって植えられたものになります。
ですから約400年の歴史がこの杉並木にはあるんですね。

箱根にゆかりのあるダンディなおじ様たちを称える碑がありました。

芦ノ湖側に国道1号が走っており観光客はどちらかと言うとそちらを歩いている人が多かったですが、この杉並木こそ旧東海道な訳ですからここまでの苦労を思い出しながら一歩一歩踏みしめます。

少し歩くと国道1号線とぶつかります。

芦ノ湖の先に富士山とその傍らに箱根神社の鳥居がみえます。

24番目の一里塚、葭原久保(よしわらくぼ)一里塚です。

ここからまた国道から少し外れて杉並木が続きます。

いよいよ関所も近づいて来ましたし日も暮れて来たので歩みを早めますとついに杉並木も終わりを迎え、恩賜公園駐車場が見えてきました。

道路を渡り恩賜公園駐車場から関所までの道を歩くと5分もしないうちに本日の執着地点である箱根の関所に到着しました!!

いやぁ長かった・・・・日本橋からこの箱根まで8日間をかけて歩いてきましたがついに踏破する事ができました。

とは言ってもゴールではなくまだまだ旧東海道の旅は続くので一区切りと言うところでしょうか。

箱根の関所を散策しようと思いましたが帰りの特急の時間が迫ってまいりました。次回の出発地でもあるので帰りの特急に間に合うように撤収しなければと我に返り踵を返して撤収です。

総括

週末を使って日本橋から箱根宿を歩いてきて、最初は身体中が筋肉痛になってしまう程運動不足が露呈していました。

箱根路も最後の方はひぃひぃ言いながら登っては居たものの最初の頃を思うと良くここまで来れたなぁと自分でも驚いています。

当時の旅人たちを思えば整備された道を歩いているので楽なもんなんですが、それでも目的を持って始めた旧東海道の旅も一つ区切りがついたというところです。

ここからは三島宿に向かってついに駿河の國(静岡県)へ入っていきます。

東京と神奈川県下はある種地場みたいなもんですがここからはアウェイになりますのでそういった点も含めて楽しみです。

余談

芦ノ湖からはバスを使って箱根湯本まで下ったのですが、日も暮れて帰宅する車の渋滞にはまり1時間程かかって箱根湯本に到着しました。

もう少し余裕をもって帰って来れると踏んでいたのでお土産を吟味する時間が全く取れませんでした。

お土産を買うことが目的ではないので、これも旅のハプニングとして思い出になりそうです。

本当は「湯もち本舗 ちもと」の湯もちを買って帰りたかったのですが閉店時間を迎えておりやっていませんでした。

店じまい中でしたが箱根まんじゅうを購入させていただきました。

「丸嶋本店」の箱根まんじゅうは美味しかったです。

この記事は2022年11月の事になりますので紅葉がかった風景が多いですが、今は新緑の時期なので緑が綺麗でしょうね。

ただ暑くなってきていますので旧街道を歩く方は水分補給忘れずに!

それではまた次の記事で!

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