どうも、さかもつです!
前回神奈川宿〜藤沢宿まで無事到着して終わりましたが、今回は藤沢宿〜平塚宿を目指して進んでいこうという話です。
街道旅はこの記事で5日目となります。
まだまだ先が長いので早く更新しなければ(笑)
さて前回の記事では藤沢宿まで到着したのが既に夕方であったため藤沢宿を巡るのは次回に持ち越しとなっています。
そして今回は遊行寺横の江戸見方見附からスタートですので最寄りの駅(今回は藤沢本町駅)から遊行寺まで歩いてこなければならず時間をロスしてしまいました。
これからもこういった事があるかもしれないので旅程はそれなりに立てておかなければと再度念を押さなければと思っております!
旧東海道の旅 5日目 藤沢宿~平塚宿
さて今回は15.4kmの道行となりますが途中ルートを少し外れて寄り道をしたので歩行距離としては20km前後でしょうか。
見どころ満載となっていれば良いですが(笑)
さて今回の執着地である平塚宿ですが前回記事の程ヶ谷宿と同じく不人気宿場であったなんて話があります。
程ヶ谷宿と神奈川宿の距離は近く、少し歩みを伸ばして戸塚宿まで進む旅人が多く程ヶ谷宿のお客さんは次第に戸塚宿に取られてしまったという話があるように、平塚宿もその先の大磯宿との距離がとても短かったので何なら大磯宿まで行ってしまおうかなんて話があったとか。
そんな平塚宿を今日は目指します!!
さっそく行ってみましょう!
前回のおさらい
前回は神奈川宿〜藤沢宿まで進む大変な道のりでした。
色々と史跡は有りましたが駆け足に見学したのと思った以上に「跡地」が多く、看板などで当時をしのぶという場所が多かったですね。
その中でも品濃一里塚はある程度当時を思わせる状態で残っている一里塚の1つでしたので印象に残っています。
権太坂の由来や思った以上に当時の権太坂は厳しい道のりで大変多くの方が亡くなられたと思われることから悲しい歴史を持つ土地であることも改めて実感しました。
不謹慎って訳じゃありませんがその権太坂を登りきると茶屋若林をはじめとしたお茶所で焼餅を食べるのが名物だって言うんだから・・・・実際の距離にしてもそこまで離れていないんですよね。
ロマンだけではない実話もしっかり目を逸らさずに直視したいと思います。
戸塚宿を跡にして辿り着いたラーメン屋さんの「カミカゼ」さんはとても美味しかったです。
さらに箱根駅伝の聖地戸塚中継所も生で見る事が出来て超満足です。
道路工事の影響で一里塚跡が跡形も無くなっていましたが、その先の遊行寺坂は長い坂道が続き、思った以上に大変でした。
藤沢宿~平塚宿までの主な史跡・遺構
・長生院
・遊行寺 PICKUP
・大鋸橋(遊行寺橋)
・江の島弁財天(道標)
・藤沢宿蒔田本陣跡
・妙善寺
・常光寺
・永勝寺(飯森女の墓)PICKUP
・義経首洗い井戸
・白旗神社 PICKUP
・藤沢宿京見附跡(藤沢宿完結)
・大山道入口 PICKUP
・四ツ谷一里塚跡
・庚申供養塔
・牡丹餅立場
・東海道の松並木 PICKUP
・茅ヶ崎一里塚跡 PICKUP
・旧寛永石灯篭
・東海道を200年見守った黒松
・二十三夜堂跡・富士見橋
・南湖の左富士碑
・清明井戸跡
・旧相模川橋脚 PICKUP
・男女双代男女双体道祖神
・男女双代男女双体道祖神(赤屋根)
・中島ガード
・陸軍架橋記念碑 PICKUP
・馬入の一里塚跡
・八幡大門通り・浜大門の碑
・平塚八幡宮 PICKUP
・番町皿屋敷・お菊塚
・江戸見附跡 PICKUP
・平塚宿脇本陣跡
・平塚宿高札場跡・問屋場跡
・平塚宿本陣跡
・西問屋場跡
・要法寺・平塚の塚 PICKUP
・平塚宿京方見附跡 PICKUP
遊行寺
こちらは時宗の寺院で正式名称は藤澤山 無量光院 清浄光寺(とうたくさん むりょうこういん しょうじょうこうじ)と言います。
おそらく地元の方や時宗に明るい方でなければ遊行寺と言った方が伝わるかなと思います。
遊行寺の名の由来は遊行上人が住まわれるお寺という事からだそうですよ。
時宗の総本山という事もあり本殿は見事な造りとなっています。
箱根駅伝の中継でもはっきりわかるくらい大きく映りますが直接目の前にすると圧巻です。
その手前には一遍上人の像がありますが、一遍上人と言うと時宗宗祖であり踊念仏を広めた世に広めたという事で有名ですね。
一遍上人はこの遊行寺には直接的なゆかりは無かったと思いますが大きな像が建造され参拝客を見守っています。
寺の中央部には大銀杏が植わっており以前の川崎宿編で紹介した稲毛神社に植わる銀杏と同じく歴史のある神樹と言ってよい程歴史のある銀杏です。
遊行寺のHPによると樹齢700年(500年説もあり)と言われている様です。
昭和年間に台風によって1/3が折れてしまったようですが今でも元気に葉を茂らせています。
遊行寺を出て東海道へ向かう途中に藤沢宿交流館があります。
こちらにも高札場を復元したものが設置されています。
その先には浮世絵にも描かれている大鋸橋(現遊行寺橋)を渡って宿場内を進みます。
案内図を撮ってみましたが、言うまでもなく宿場はくの字に曲がっていますね。
現在地は東海道と江の島道が交わっている場所でもあるので当時は旅籠屋も多く相当な賑わいがあったことが伺えますね。
今は有りませんが当時はここに鳥居があり、そこをくぐると江の島道に入るという事だったみたいです。
江戸期は伊勢神宮、大山、そして江の島詣がブームであり江戸からの観光客が大勢押し寄せていたと言われているんですね。
今でも江の島は観光地として有名ですが当時も芸能の神である弁財天を祀っている事から芸事を商いとする人たちが多く参詣したと言われていますよ。
一本裏手の道になりますが妙善寺にもお参りさせて頂きました。
そこで気持ちよさそうに転寝する猫さんを発見。
ドラゴンボールのカリン様に似ている・・・(いや当たり前だろ)
・永勝寺(飯盛女の墓)
浄土真宗本願寺派の寺院。こちらの寺院をPICKUPしたのは飯盛女の墓が安置されているから。
この飯盛女(めしもりおんな)とは何か?
いわゆる旅館の仲居さんをイメージしてもらえば良いのだがその他にも仕事があった。
それは旅籠に泊まる男たちの相手である。
遊郭なんて言葉を聞いたことがあると思うが、江戸時代では幕府公認の遊郭が各地にあり有名な所では吉原遊郭ではなかろうか。
ここで働く女たちは公娼と言って幕府公認の下、営業を許可されている者たちであったわけだが、飯盛女(飯売女)は言ってみれば私娼。
なぜ私娼を置かなければならなかったのか?それは公儀の仕事で泊まる役人たち等は無償で泊めなければならなかった事や周辺旅籠との競争激化による経営難から客寄せのために置かれたと言われている。
当時の江戸で働く庶民たちがお金を貯めて大山詣もしくは江の島詣に行くことが多かったようだが、その多くはこの藤沢宿もしくは次の平塚宿に泊まることが多く信仰と娯楽を楽しんだという話は有名だ。
ただ風紀の乱れを警戒した幕府は旅籠屋1軒につき2名までとお触れを出したがほぼ守ら得ていなかったともいわれている。
そのお触れには公娼と区別するため衣服はもめんを着用とまで記される次第だが、これも徐々に守られなくなったと言われている。
宿場にあった旅籠全てが飯盛り女を置いた訳では無かったが飯盛り女を置いた旅籠は大いに繁盛した。
そこで働く女たちは付近の農村の妻娘達で大半は借金の形にされて売られてくる者たちが多かったと言われている。
そして大体この者たちは若くして亡くなる。
理由は過酷であり不衛生であるからだ。
今でこそ性病は薬等で治すことが出来るが、当時は薬が無かったし飯盛り女たちは薬を買うお金など持ち合わせていない。
詳しい文献はあまり残っていないようだが日に複数人それも毎日のように相手をする訳だ。
そして亡くなると投げ込み寺と呼ばれる寺院に名の通り投げ込まれて無縁仏として弔われる。
この永勝寺には旅籠の主であった小松屋源蔵の墓があり同じ区画に飯盛り女の墓が建てられている。
おそらく不憫さから弔ったのだろう。
ただ永勝寺の飯盛女の墓は若干美談のように語られている節があるが果たしてそうだろうかと疑問は残りますね。
旧街道旅をしていてまだ6宿場目ですがロマンだけではない現実として悲しい歴史も目の当たりにする事になる訳です。
現代にも通ずる問題や課題を突き付けられている気がします。
白旗神社
少々暗い気分になりつつも先に進みます。源義経が祀られている白旗神社を目指しますが途中の義経首洗井戸にも立ち寄ります。
奥州で追い詰められた義経は自害します。その後首実検が鎌倉市腰越の辺りで行われたが、その後その首は浜に捨てられてしまう。
その首が川をさかのぼり里人に拾われ、この井戸で清められ弔われたという話である。
そしてその義経が祀られている神社がこの白旗神社です。
当日は11月初旬の土曜日でもあったので七五三のお祝が執り行われていました。
元々は寒川比古命(さむかわひこのみこと)を祀っていたと言われていますが今は義経のイメージが強いかもしれませんね。
義経・弁慶の2基のお神輿があり、お祭りの際は大変にぎやかになるそうですよ!
例祭は7月に開催されるようです。
コロナが悪さをしなければ今年は見れるかもしれませんね!
大山道入口
さて藤沢宿の上方見附へ向けて歩みを進めます。残念ながらこちらも看板が建っているのみで当時を偲ぶものは残っていません。
藤沢宿の上方見附は石垣の土居が築かれていて榎が植えてあったと言う話です。
ここからはしばらく道を歩くだけとなりますが、気を付けないと旧東海道と気づかずスルーしてしまいそうな脇道をしっかりチェックしながら進みます。
2.5km程とにかく歩くと四ツ谷と言う交差点に差し掛かります。
その交差点直ぐに大山道入口があります。
入口に大きな鳥居が建っていますからすぐに分かりますよ。入り口には不動明王が祀られていました。
ここから大山までは結構距離がありますが、当時は大山まですっきり見通せたんでしょうかね?
今度ここから大山を目指すのも面白いかもしれない・・・・こうご期待(笑)
・東海道の松並木 PICKUP
大山道から平塚宿を目指して歩みを進めますが途中の一里塚は道標のみでした。
藤沢から平塚までの間に茅ヶ崎市がありますが当時も茅ヶ崎は間の宿(あいのしゅく)があったと言われています。
少し歩くと牡丹餅立場跡が現れます。ここも立て看板のみですが割と重要な場所です。藤沢宿から平塚宿までのちょうど中間にあたる茅ヶ崎は休憩場所として栄えたようなんです。
ここの牡丹餅立場と、もう少し先の南湖茶屋があり賑わったようです。
牡丹餅立場の看板からすぐの所に当時の様相を残す松並木が現れました。
かなり大きく育っていて圧巻です。樹齢400年とのことで東海道が整備された最初期に植えられた松という事ですね。
この辺りは海も近く台風が来れば暴風被害も多い土地ですからそれを耐えて来た松達な訳ですね。
地元の人たちによって維持管理されている事ですが、ここまで大きくなると心配事もありそうですね・・・・とは言えこれからも大切に残していきたいですね。
・茅ヶ崎一里塚跡 PICKUP
日本橋から14番目の一里塚である茅ヶ崎一里塚です。
茅ヶ崎の一里塚は現在南側のみ当時の姿を残しています。
ここまで跡形もない一里塚も多い中こちらは片方ではありますが当時の状況を残していますので、わざわざ歩いてきたかいがあるってところでしょうか。
こればかりは仕方のない事なんですが看板のみの場所や跡地は相当妄想力を高めないとガッカリしちゃうので(笑)
・旧相模川橋脚 PICKUP
平塚宿へ歩みを進めます。途中パワースポットと言われる第六天神社へも立ち寄らせていただき裏手にある黒松も見学させていただきました。
歩みを進めると南湖の左富士碑がありました。
東海道を京都方向へ進むと基本的に富士山は右側に見る事になるのですが、この南湖では富士山が左側に見えると言う珍しい場所になります。
これはこのあたりで街道が湾曲することから起こる現象の様で、安藤広重が浮世絵で描いたことで茅ヶ崎の名所となったようです。
あいにくこの日は曇り空で富士山を見る事は出来ませんでした。
非常に残念でした・・・・。
そして下町屋橋の手前に旧相模川橋脚が現れます。
昨年放送されていた大河ドラマで大泉洋演じる源頼朝が馬から落馬する直前に訪れていた橋とされている。
この橋は頼朝の家来であった稲毛重成が亡き妻(頼朝の妻の北条政子の妹)の供養のために相模川に架けた大橋であるとされている。
さらに中世鎌倉時代に手がけられた橋としてはとても貴重な遺構とされている。
またこの橋脚も今より約100年前の関東大震災とその翌年の余震で出土したものらしくそれまでは埋まっていたようですよ。
この橋が発見されてから当時の相模川の流れや橋の構造等が解明されたようです。
・陸軍架橋記念碑 PICKUP
旧相模川橋脚を見物して先を進みますが、実際の所大磯宿まで進みたいという気持ちはありましたが現時点で13時。
日没までというルールを課しているのでおそらくこれは平塚宿までだろうと軽くあきらめムードです。
馬入橋のちょっと手前に古いガードを見つけました。上には東海道本線が走っている様で中島川ガードと言うようです。
レンガ造りとなっていて明治期に造られたようですね。
中島川と名付けられているので川があるのかと調べましたがどうやら見当たらない。
当時は中島川と言う川が存在し埋め立てたか暗渠化したというところでしょうか。
道幅はとにかく狭く車がすれ違うのはまず不可能です。
歴史的に見ても珍しい建造物だと思われますがあまり保存状況はよくありませんな。
とは言え引っ切り無しに走る列のたもとにある訳でそう簡単に改修工事を行う訳にもいかないと言うところでしょうかね。
さてこの馬入橋を境に平塚市へ入ってまいります。
そしてここを流れる川は東海道の難所相模川となります。
川崎宿編にて出てきた多摩川を渡船する六郷の渡しと同じ事になりますが川幅はこちらの方が広いでしょうかね?
当時は沢山の船が相模川を往来しており大名行列・公儀の役人の往来・さらには庶民達の旅を大いに助けた事でしょうね。
今は立派な橋が架かっているし車で走れば一瞬の事ですから便利になったなぁと思う訳ですね。
歩いてみると結構な距離があって全長563mとのことです。
そんな馬入川ですが1923年9月1日に起きた関東大震災の際に倒壊してしまったようです。
平塚と藤沢の往来は遮断されてしまい直ぐに有志による渡船が行われたようだがそれも数日後にあった豪雨で流されると言う不幸が続きます。
そこで9月17日豊橋の陸軍第15師団所属工兵大隊と、京都の第16師団所属工兵大隊が急遽派遣され架橋工事が行われる事となった。
橋の全長450メートル(当時)の内、平塚側の300メートルを第16師団が茅ヶ崎側を第15師団が担当し、10月3日に完成したと書かれています。
大隊なので各師団から500〜600人程の人員が派遣されたのかもしれませんが僅か半月で完成させるとは・・・・。
作業時間とかどうなってたんだろう(笑)
こちらの記念碑は第16師団の功績を称えたものになっています。
・平塚八幡宮 PICKUP
平塚宿が目前に迫ってきました。
当時はもっとひらけていたでしょうから江戸方見附が見えたのではないかと思っていますがどうでしょうか?
途中に15番目の馬入一里塚跡を発見。
こちらは完全に跡地であり面影は有りません。
江戸方見附まであと少しと言うところまで来ていますがここで少し街道を外れて平塚八幡宮へ参拝にまいります。
相模國一國一社八幡宮と呼ばれていますがそもそも一國一社とはなにか?
各律令国において一番最初に創建された八幡宮。基本的に、聖武天皇の一国に一社ずつ八幡宮をおくという構想があったようで、この平塚八幡宮に法華経を収めた際に一国一社の霊場と記載されていたとか。
律令時代の平塚は相模国の国府が置かれていたため国府八幡宮としての役割も持っていたようです。
この辺りの事はもう少し勉強すると面白いんだろうなと思いつつなかなか手が出ない・・・・。
この日は11月5日という事もあり七五三の慶事が執り行われていて沢山の親子が居ました。
菊の花が売られていたのか飾られていたのか・・・・すみません、そのあたりはよくわからなかったんですが見事な菊が沢山ありましたよ。
裏まいりと言うものをしてきました。
何でも神様に一番近い位置でお参りが出来ると言うではありませんか!
自分は生まれて初めて裏まいりと言うものを知ったのですが、正面に立たないのは失礼なんじゃないかと思っていた訳でもないが、正面からお参りするものだと思い込んでいました。
裏まいり自体がメジャーな物かは分かりませんが物は捉えよう・考えようって事ですかね。
弁財天さんもおられましたのでお参りを済ませて平塚八幡宮をあとにします。
途中交差点の歩道橋から平塚駅方面をパシャリ。
平塚市の事はずっと認識していましたが降り立つのは初めてかもしれない。
整備された道と広々とした駅まえに商店街も広く割と大きな街だったのだと認識しました。
・江戸見附跡 PICKUP
ついに江戸方見附まで辿り着きました!平塚宿到着です。
道幅が違うので移設して保存しているのだと思いますが元々の見附は少し位置を違えて設置されていたようです。
江戸からみたこの江戸方見附は戦になった時に軍勢が入り込みやすいように造られていたと聞きますね。
上方見附の方が入り組んで作られていたりワザと曲げて入りづらく造ってあったとも。
ただ案内図を見る限り見通せはしないものの今まで訪れた宿場に比べると直線的な造りですね。
おそらく上方見附を出て古花水橋方向へ道が曲がっている事も関係しているかもしれませんね。
ここからは殆ど跡地という事で足早に歩を進めますが、目の前に見えるこんもりした山をご存じでしょうか?
高麗山というんですが、この山にちなんだ逸話があるようなんです。
平塚宿から大磯宿までの距離は短く、約3km程度なんです。
自分たちでも3kmだったら歩いちゃうかってなるような距離なので大磯宿にお客をとられてしまう事が増えてきたようなんですね。
そこで平塚宿の客引き達がこぞって言ったのが、「大磯宿に行くにはあの高麗山を越えていかなければならないんですよ!?大変ですよ!!!??」的な事を言ってそれを信じた旅人をお客にしていたとか。
実際は上方見附を出たらグイっと道が曲がるため高麗山は右手に見えるだけなんですがね。
後にまた言ってるよくらいの名物となってワザと騙されたふりをする旅人も出てくるなど笑い話となったようですが。
でも騙された方は堪ったもんじゃない!!って思われる人もいるでしょうが、言っても3kmなのでね。元々大磯宿に泊まるつもりだった人たちからしても誤差だったのでしょう。
大磯宿でなければならないって人なら客引きを振り払って進んだでしょうし。
でもこれは現代にも当てはまりますがコンビニの近くにコンビニが出来たり、スーパーの近くにスーパー、ラーメン屋の向かいにラーメン屋的な客の取り合い。
いわば生存競争なのかもしれませんが宿場間も結局同じことだったのでしょうね。
死活問題な訳ですよね。だからあの手この手になっちゃったわけですよね。
高麗山話は笑い話でもありますがこれに加えて飯盛り女の話ですから本当にあの手この手だったんでしょうね。
要法寺・平塚の塚
要法寺は日蓮宗の寺院です。日蓮が病身を養うため身延山(山梨県)から池上(東京大田区)へ向かう途中に立ち寄った。
当時は寺院であった訳でなく、鎌倉3代執権北条泰時の次男泰知の邸宅があった。
泰知邸に日蓮を招きお休み頂いたという話のようですね。
その後日蓮に帰依し泰知が要法寺の開基となったという話だ。
現在の要法寺のすぐ隣に塚があり、大きな松が植わっている。(この松は3代目らしい)
平塚の名の由来となった塚として有名な史跡で、その由来にはいくつかの説があるようです。
平真砂子(眞砂子、政子との表記もある。)という姫様が葬られているという事です。
真砂子は高見王の子で桓武平氏の祖といわれる高望王の妹といわれており、平将門や平清盛らの祖先にあたる。
どういう理由があっての事かは分からないが都から東国へ下向する事となり途中で息絶えた訳です。
高望王は後平姓を賜って平高望となる。よってその妹である真砂子も平真砂子と呼ばれることとなり、平のお姫様が葬られた塚という事で平塚とする説もある。
もう1つは塚なのでこんもりと丸かったはずだが経年劣化で平らになっていったため平塚と呼ばれるようになったとか。
割と日本人の命名って単純なのでそんな馬鹿なって思うような由来だったりしますよね。
どちらの説もありそうだと思いました。
上方見附
さてついに5日目の執着地点である上方見附に到着です。
こちらは跡地という事で面影はありませんが場所はおそらくこの辺りであったという事ですね。
振り返ってみると江戸方見附までは1直線に見通せないような雰囲気ですがやはり今までの宿場に比べると構造がまっすぐですね。
総括
藤沢宿~平塚宿までをあるいてみて、多くの歴史に触れてすごく勉強になったと思いましたし、堅苦しく考えなくても古くからある寺社をお参りする事も出来ましたし、そこに植わっている古木を見る事も出来て刺激的でした。
ただ歴史的観点で見ると時代劇やドラマ等の脚色が強く上手い事歴史の事実を隠して描かれた物語に浸りすぎてしまい、本来日本人として知っておかなければならない現実から目を背けてきた、もとい逸らされてきたとも感じます。
もっと知らなければならない。知ったからと言って何か大きく成長出来るとか変化を起こせるわけではないですが、今起きている事柄の答えや原点は過去にあるのではとも思えます。
とは言えロマンを感じる部分もやはりありますし、楽しみつつ学びつつを上手く両立しながらこの先も進んでいきたいと思っている所存。
というより早く記事化しろって話なんですけどね(笑)
余談
帰りに平塚駅前の都まんじゅうを買って帰りました。
あの香りが漂ってきたら回避不能だろ(笑)
お値段も本当にお手頃で美味しいので平塚へ立ち寄った際は是非!
それではまた次の記事で!
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