【品川宿】旧東海道の旅② 鈴ヶ森刑場跡 六郷神社 六郷の渡し 川崎大師 【川崎宿】

どうも、さかもつです。

前回は日本橋から品川宿までの道のりを進み、身体に異変をきたして浜川橋にて旅を断念してしまいました。
今回は浜川橋から川崎宿を目指して進んでまいります。

当日の10月8日(土)は前回ほど晴れておらず雲が多めな天候。
気持ちとしては晴れている方が楽しいのですが、10月という事もあり割と気温が上がります。
夏日になると体力の消耗が激しいのでいい具合に太陽が出てくれると助かります。

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旧東海道の旅 2日目 品川宿~川崎宿

グーグルマップでは12.6kmの行程となっていて、単純歩行時間としては2時間41分。
ただ色々な遺構や史跡を巡るので実際の歩行距離はもっと伸びる事となります。
前回の失敗からかなりビビっておりますので今回は歩行距離プラスαをしっかりと勘案して臨みました。

浜川橋(品川宿)~川崎宿までの主な史跡と遺構

  • 天祖神社
  • 鈴ヶ森刑場跡 PICKUP
  • 磐井神社 PICKUP
  • 旧東海道碑
  • 大森一里塚跡地
  • 西南・日清の碑
  • 梅屋敷公園 PICKUP
  • 六郷神社 PICKUP
  • 六郷一里塚跡
  • 旧東海道碑
  • 六郷の渡し跡 PICKUP
  • 六郷の渡し川崎側 PICKUP
  • 川崎大師 PICKUP
  • 万年堂跡
  • 田中本陣跡地
  • 東照さん PICKUP
  • 宗三寺
  • 稲毛神社 PICKUP

鈴ヶ森刑場跡

品川宿から川崎宿へ向かう道中初っ端のスポットになります。
鈴ヶ森刑場とは慶安4年(1651年)に開設され東海道から江戸に入る入り口にに作られ、小塚原刑場・板橋刑場と並んで江戸の三大刑場と言われていたそうです。

写真を見て貰っても分かるように火炙り(ひあぶり)台と磔台が今も残っています。
当時の場所と若干違うようですがこの付近が鈴ヶ森刑場であったことは間違いないです。

旧東海道に面しており、この場所に設置されたのは江戸で悪さをするとここで処刑されるぞと言う見せしめの意味合いが強かったようです。

江戸時代は戦乱が収束し徳川幕府の治世が始まり人口も爆発的に増えていきました。
司法制度も整い始めて多くの罪人が処罰されました。
江戸時代の刑罰はとても重く、開設された頃から明治初めごろまでの約200年で死罪に処された人はこの鈴ヶ森刑場だけでも10~20万人ほどいたのではないかと言われている程です。

前回記事の浜川橋(泪橋)の部分でも書きましたがその中でも冤罪も多く、自白をさせるための拷問がとてつもなくエグかったみたいなんです。

この鈴ヶ森刑場は今でいうメインストリートである東海道沿いにあるので人の往来が激しい場所でほぼ毎日のように処刑されている現場や晒し首が並んでいたのを人々は目にしていた訳です。
北斗の拳の世界よりひどいんじゃないかと言うレベルですね。

余りにも惨いので裏通りを通って刑場前を避ける人々も多かったとか。

最後に一つ処刑の種類である火炙り(ひあぶり)のお話を1つ。
現在は埋め立て地になっていますが、国道15号と反対側は海岸線になっていたので海風が吹き付けていたようです。
写真にある火炙り台に括りつけられた罪人を小火力にてあぶっていたそうです。
業火に焼かれるのであれば熱さによるショックや一酸化炭素中毒で気を失いそのまま死に至るなんて事も想像できますが、あえて小火力なので海風で消えてしまう事もあったとか。
その都度火をつけ直し、やがて身体から燻る煙を吸い込み窒息死するというのが死に至るまでの流れだったとか。

重罪人や犯罪者であればこの報いは当然とも考える方も居るかもしれませんが、あまりにも残忍だと自分は感じます。
そして冤罪で処刑された人々が多くいたと思うと正直涙を禁じ得ない。
ただこの処刑場が江戸の風紀や治安に一役買っていたのも事実です。

悲しい過去・歴史を持つ土地ではありますが現在は大経寺さんの境内にあるという事になっていますのでお近くを通った際は手を合わせてみてはいかがでしょうか。

磐井神社

式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社です。『三代実録』によれば貞観元年(859)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また平安時代(十世紀)に編纂された『延喜式』の神名帳に記載されています。
別名、鈴森八幡宮 引用元 武蔵之國鎮座 磐井神社

現在この磐井神社は国道15号沿いにありますが元々の敷地は東京湾の浜までが境内であったと言われています。
鈴石という転がすと鈴の音がするという石が祀られており、このことが有名となり鈴ヶ森と呼ばれるようになったとか。

他にも烏石(からすいし)や特徴的な狛犬があります。
上記引用より磐井神社のホームページに飛んでもらえると見れますので見てみてください。(撮り忘れました)

子獅子が親獅子の足元でじゃれ合っているような構図となっていて子宝の象徴等ともいわれている様です。

東海七福神の弁財天様が祀られております。
後々東海七福神巡りもやってみようと思っております。

こちらは磐井神社の名の由来にもなる「磐井」と呼ばれる古井戸です。
大田区文化財にもなっております。
元々国道15号が走っている部分は磐井神社の敷地であり、東海道に面していたことから旅人たちの喉の渇きを潤してきたようです。
「心正しければ聖水、心邪ならば塩水」というような伝説が残っているそうです。

ただこのあたりは海岸沿いという事もあり若干塩味が混じっていた可能性も無きにしも非ずなんでは・・・・と思うんですが無粋ですかね(笑)

梅屋敷公園

その名の通り梅の木が沢山植えられたお屋敷があった場所です。
現代の花見と言えば「桜」一択と言っても過言ではありませんが、日本の花見と言うと古くは「梅」とされてきました。
万葉集の中で詠まれた歌の中でも桜を詠んだ歌よりも梅を詠んだ歌の方が倍近くエントリーしている程です。

ただ平安時代~現代に掛けて梅よりも桜の人気が出てくることとなりますが、梅の花も大変人気があったようです。

文政(ぶんせい)年間(1818年から1830年)の初めに、和中散(わちゅうさん)という道中常備薬を商う山本久三郎が、梅の名木を集め、東海道を往来する旅人を相手に茶店を開きました。かつては蒲田梅屋敷として、亀戸の梅林とともに江戸近郊の梅の名所の一つとして有名になり、広重の浮世絵にも描かれました。現在公園になっているところは、その屋敷跡の一部です。 引用元 大田区ホームページ

ただそこに至るにあたってはWikipediaには蒲田・梅屋敷の地域は度重なる増税に苦しんだ農民が農作物の他に梅の木を植えてその実を収穫して生活を潤したと書かれているんですね。

そしてこの辺りは東海道筋なので旅人の往来が多く、植えられた梅の花を見物に来る人も増えたとか。
引用に書かれている山本久三郎さんが梅の名木と書かれておりますが、老木(実が取れなくなった木)を買い集めて敷地に3000本植えて茶屋も設置したという訳です。

農民からすれば梅の実が取れる事が大事であり花は二の次であったが、山本久三郎さんは実よりも花で客寄せをする事で自身の商いを成功させようと考えた訳ですね。
いくらで売り買いされていたかは存じ上げませんが、ギブアンドテイク的な循環が成り立っていたのかもしれません。

先の戦争で明治天皇がお休みされた茶屋等の遺構は焼失してしまい、さらに京急線の高架工事や道路拡幅工事等の影響で閉鎖されたり復活したりと忙しい公園ですが現在も大田区の管理で梅の花やアヤメ等の花を見る事が出来ます。
見ごろは2~3月で訪れた10月は緑が多く都会のオアシスと言った感じでした。

六郷神社

梅屋敷公園から2~3km程歩くでしょうか。
東海道を下って行きますと国道15号に面して鳥居が現れました。

こちらも大変歴史のある六郷神社になります。
おそらくこちらは正門ではありません。

社伝によれば天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられます。   引用 六郷神社

源氏との関りが深く後に鎌倉幕府を開く源頼朝も祖先の吉例にならって戦勝を祈願して見事勝利を収めたとの逸話もあり、雌獅子頭(めじしがしら)と浄水石は頼朝が奉献し下の画像にある太鼓橋をその家臣である梶原景時が寄進したそうです。
※奉献:神仏や寺社、貴人などに物をたてまつること。この場合戦勝祈願の為に奉献したという事か。
※寄進:自ら進んで寄付する事。

 

上記で説明した太鼓橋。
こちらを寄進した梶原景時は頼朝に仕えた宿老にも数えられ、先日まで放送されていた「鎌倉殿の13人」でも中村獅童さんが演じ、絶大な影響力を持っていた。後に政争に敗れ鎌倉を出奔し上洛の為西へ向かっていた道中戦闘となり自害するに至っている。

少年が本殿を写生していた。
写真撮りたいからどいてくれるかな何て言えるわけもなく、こんなに感心な少年も珍しいと思いそっと本殿と共に後姿を収めさせていただきました。

おそらくこっちが正門?で良いんですかね?
やはりこの六郷神社の区画は存在感があって神聖な雰囲気を楽しめました。

やや駅から離れている為、少し歩きますが好奇心をくすぐる多くの遺構を目にすることが出来ます。ぜひお参りしてみてください。

六郷の渡し跡

現在は六郷橋が架かっている多摩川ですが、江戸以前にも橋何度も架けられています。
ただ日本は台風をはじめとして雨が良く降る国でもありますので、今よりも治水対策が出来ていなかった時代は洪水で橋が流されてしまっていました。

江戸時代初期に幕府を挙げて設置された際はその長さ約200mほどあり、それは立派な作りだったそうです。
ただやはりこちらの橋も洪水で流されてしまい、以後約200年ほど船による「渡船渡し」となります。

初期のころは大田区側にあった八幡塚村の人々が渡船を取り仕切っていたようだが、後に経営が厳しくなった川崎宿にも渡船権を幕府与える事になる。
明確に賃料が決まっていたが特権階級(武士・僧侶)は無料であったそうな。
ただそれでも庶民や馬などを渡船させて年間500両ほどのお金が動いていたようです。
7割方がお金の取れない特権階級相手の仕事だったようなので500両はおそらく少ないと思われます。

決して渡船の仕事だけで食べていける程の仕事では無かったはず。

六郷の渡し川崎側

川崎宿側から見た多摩川と六郷方面。
今でこそ護岸工事と治水対策によって川幅は安定しておりますが、それでも少し前の台風で多摩川が増水した際には多摩川全域の土手が滅茶苦茶に破壊されました。

現代の設備をもってしても自然を収める事は出来ないわけですが、この橋があることが当たり前になっている自分たちには恵まれていると思わなければならないですね。

そして見ても分かる通り滅茶滅茶濁ってます!

川崎大師

東海道を少し離れて川崎大師へ向かってみました。
久々に訪れたのですがこんなに山門が立派であっただろうかと驚きました。

とは言え川崎大師も歴史のあるお寺ですのでこれくらい立派でも何も不思議ではないのですが。
写真左側に見えておりますが川崎大師は通称であり、本来は真言宗 平間寺(ひらまでら)です。

ご本尊は厄除け弘法大師(空海)、平間寺の由来は平間兼乗(ひらまかねのり)さんが創建に携わったからと言われています。
平間兼乗さんは無実の罪で尾張(現愛知県)から追われて川崎の地に流れ着き、漁師として生活をしていた際に夢まくらでお告げを聞き漁に出た際に弘法大師の木造を救い上げたそうな。
その後尊像を清め、毎日供養を続けていたようです。
偶然高野山の尊賢上人と兼乗さんが出会い兼乗さんの境遇を知った尊賢上人が感激し、二人で一寺を建立したのがこの平間寺と言う逸話です。
後に疑いが晴れて尾張に戻れることになったようです。

私の場合ある程度地元を離れて生活圏になじんだらそれはそれで戻り辛くなりそうだと思っちゃいましたけどね(笑)

ひとしきりお参りを済ませた後は門前のお店で久寿餅を購入して家族へのお土産としました。
黒蜜ときなこをかけて食べるアレです。(写真撮る前に食べちゃう失態を・・・・)

独鈷 久寿餅 - 川崎大師 山門前 住吉|大正6年創業。倖せを呼ぶ名物久寿餅(くずもち)
「住吉」は、大正六年に創業、 以来一〇〇余年山門前で、 お大師様とともに歩んで参りました。 添加物は一切使用せず 厳選し...

 

東照

東照さんですよ。
こちらは大正2年創業の和菓子屋さんでございます。

レビューを見ても評価が高く「かわっぴら餅」というのが川崎名産品指定にもなっている様で人気の様です。
ホームページを見てみると他にも美味しそうなお菓子があるようですが、当の私は目当てのものがあって伺ったわけですが・・・・

そう!目当ての物はこれだ!!

「奈良茶飯風おこわ」

はい、写真のものになりますがそもそも何故?と思われる方も多いかと思いますのでちょっと解説いたします。

奈良茶飯とは米に栗・大豆・小豆・アワなどを入れてお茶で炊いた炊き込みご飯の事。東大寺や興福寺の僧が食べていた物が川崎宿へ伝わり、万年屋という茶屋でしじみの味噌汁と奈良漬けと共に提供されて人気を博したとされております。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にて弥次さん喜多さんが万年屋の奈良茶飯を食べるシーンが書かれたことで全国的にその知名度が広まった。
手軽に食べれて美味しいという事で江戸後期には大名も食べに来るほど盛況だったようですが、現在は万年屋は無くなっております。

奈良茶飯 神奈川県 | うちの郷土料理:農林水産省

そこで東照さんが奈良茶飯風おこわとして復活させており店内で食べる事も持ち帰ることも出来るようになっている訳です。
奈良茶飯風なので奈良茶飯とは違います。
ただ個人的には奈良茶飯より美味いのではないかと思っております。

美味しい奈良茶飯を食べれば話も変わってくるかもしれませんが、自作してみた奈良茶飯はほうじ茶風味で香気が強くちょっとくどかったんですよね。(自身の作り方が悪かった可能性大)

東照さんは京急川崎駅から徒歩5分くらいで行けますので近くに来た際は寄ってみてはいかがでしょうか!

菓寮東照
菓寮東照の公式サイトです。川崎市・川崎駅付近の和菓子、奈良茶飯なら菓寮東照。

稲毛神社

国道15号に面する場所に稲毛神社はありまして、朱色の大きな鳥居が目を引きます。
創建等の細かいことは分かっていないようですが境内にあります大銀杏が樹齢千年と言われている事から平安・鎌倉時代以前からなる古社ではないかと思われます。

西暦でいうと500年とかその辺りに時の天皇との関りがあった等の社伝も残っているようなので歴史ある神社ですね。

樹齢千年ともいわれる大銀杏ですが今は写真の通り周りを補強する形でその姿をとどめています。
後に訪れる藤沢宿の遊行寺の大銀杏も壮大ですが稲毛神社の大銀杏も逞しく、場所は違えど日本の長い歴史と共に生き抜いてきた神樹と言っても過言ではないでしょう。

川崎駅からも近い場所にありますが駅前の喧騒から一転して静かな時間を楽しめるはずです。

今回の宿場歩きの感想。

南品川宿~大師~川崎宿と歩いてきて、グーグルマップのタイムラインでは20km近く歩いている事になっていました。

前回の日本橋~品川宿でも同じくらいの距離を歩いたのですが今回は少し身体の動きが良くなったような気がしました。
普段から必要以上に歩くことが無いのでやはり使わない筋肉が衰えていたんでしょうかね。
ただそうは言っても足も腰も背中も張ってしまって翌日は筋肉痛でしたが(笑)

宿場に関して言えば現在は都市開発も進んで当時の面影を残した建物は殆ど残っておらず、立て看板が立っているだけという事もあり少々残念ではありました。
しかし、事前に勉強をしていったので妄想しながら脳内補完しましたが宿場歩きと言う点ではやや退屈するかもしれません。

品川宿も川崎宿も独自にイベントを行って町興しを頑張っていこうという気概を感じました。
ただ惜しむらくは日本の日本史教育ではこの辺りに興味を持てるような話が無いのとそもそも教わる事もないという事で、認知されないまま埋もれていってしまう可能性が大です。
入試のための学問ではなく日本人のルーツを辿る学問としての日本史が確立されて欲しいと思いました。
そうしたら今よりも地域や日本と言う国に興味を持てるようになるんじゃないですかね?

この街道旅を始めるに至って、色々と調べ物をしていくとロマン何て話じゃなくて現代社会に通じる問題等も多く存在していた事が分かってきました。
歴史に浸って満足するだけでなく、その問題点も共に見出していくのもこの旅の醍醐味になる事を願って次回は川崎宿~神奈川宿までを往きます!!

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