【平塚宿】旧東海道の旅⑥ 延台寺・虎御石 鴫立庵 旧吉田茂邸 六所神社 酒匂川の渡し碑【小田原宿】

どうも、さかもつです!
旧東海道の旅6日目になりました。
今回は平塚宿~小田原宿までを目指します。
平塚宿~大磯宿の距離は約3km程度ですぐに到着できると思いますが、小田原宿まではそれなりの距離があります。
この辺りの時間配分を気を付けながら進めていきたいと思います。

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旧東海道の旅 6日目 平塚宿~大磯宿~小田原宿

平塚宿~小田原宿まではおおよそ20kmの道のりになります。入り組んだ道のりはほぼ無く直線的なので迷う事は無いと思いますが、東海道から少し外れた場所に寄る時に場所が分からなくなることがしばしば・・・・
前もって行先はグーグルマップに記憶させているんですが稀に変な場所へ連れていかれるので細心の注意を払って進めていきたいと思います。

前回のおさらい

さて簡単に前回のおさらいをしてみたいと思います。
前回はまず時宗の寺院である遊行寺からスタートしました。東海道を整備した張本人である徳川家康が信心に篤かったという事もあり多くの寺社が東海道近辺には存在します。
律令時代に東海道は既に定められていた為、平塚八幡宮の様な国府八幡宮という格式の高い神社等も多く、うまい事新旧融合させたという事でしょうか。
飯盛り女の墓も見学し悲しい歴史も知ることとなりました。

今でも同じことが言えますが街道(幹線道路)が人の往来を作り街を発展させることに多くの寄与をしてきたことが分かります。
現代は加えて鉄道や航路・空路とあらゆる移動手段が出来たため道路が占める重要度は下がってきては居ますが、江戸以前は徒歩か馬で行くしかなかった訳ですから、その道に沿って街が栄えた訳ですね。
ここから次の回までは神奈川県内が続きますがその先はついに静岡県に入ります。
知らないわけではないが巡ったことは無いので楽しみです。

平塚宿~小田原宿までの主な史跡・遺構

・平成の一里塚
・善福寺横穴墓群
・高来神社(高麗神社)・慶覚院
・化粧井戸
・化粧坂・一里塚跡・松並木
・東海道53次大磯宿(広重筆)・大磯八系碑
・松並木・江戸方見附
・大雲寺
・延台寺・虎御石
・大磯宿問屋場跡
・大磯宿本陣跡
・大磯照が崎海水浴場碑
・大磯高札場跡
・鴫立庵
・大磯八景富士山慕雪
・島崎藤村邸島崎藤村邸
・上方見附跡 大磯宿完結

大磯宿~小田原宿

・東海道松並木
・明治記念大磯邸園
・宇賀神社
・旧吉田茂邸
・国府本郷の一里塚
・国府祭りの標石
・相模國総社・六所神社
・越路の辻の地神塔
・生竜(昼食)
・旧東海道の名残・押切坂の一里塚
・松屋本陣の跡
・茶屋旧道路傍の道祖神
・浅間神社
・史跡車坂の碑
・大山道道標
・常念寺
・上輩寺
・旧川辺本陣跡
・酒匂不動尊
・法船寺
・酒匂川の渡し碑
・酒匂橋
・新田義貞の首塚
・山王神社
・江戸方見附跡

平塚宿上方見附~高来神社(高麗神社)

今日のスタートは平塚宿上方見附からになります。すぐ先には高麗山がそびえたっていますが、高麗山には登りません。
そのふもとにある高来神社へお参りに寄ろうと考えています。
出発してすぐ大磯町に入ります。

交差点の脇に平成の一里塚がありました。平成の一里塚は何番目の一里塚なのかっと調べていると名前が出てこない・・・・どういうことだ?
これは元々置かれた一里塚ではなく平成時代に公園整備の一環として作ら得た新規の一里塚という事みたいですね。15番目が馬入一里塚で次は大磯・化粧坂一里塚ですからね。

何をもって一里塚なのか・・・・という疑問は残りますが花水川と花水橋の先に高麗山があって休憩スポットとしてはとてもいい場所だと思いました。

少し歩いた先に善福寺という浄土真宗の寺院がありました。
こちらには古墳時代の横穴墓群が残っております。

高麗山を正面にみて立派な鳥居が見えてきました。
高来神社到着です。
名前の由来を聞いていてずっと引っかかっていたんですがやはり高麗(こま)は高麗(こうらい)いわゆる高句麗(こうくり)から来ていたんですね。
こちらの神社は高麗山の山頂に上宮があるようですが今回は時間の関係上ふもとの社をお参りしました。
ここにも源頼朝が妻政子の安産を祈願したという話もあり東海道は頼朝の逸話も多いですね。
後北条家との関りもある様でわずかばかりの所領を寄進されたとも。

松並木・江戸方見附


高来神社を後にして少し歩くと道が2つに分かれます。
松並木が見えるのでとても分かりやすいですね(笑)
スルーして新道を進んでしまうと非常に勿体ないのでこちらを歩く際は気を付けてください。

旧道に入り込んですぐに化粧井戸がありました。
曾我兄弟の物語に登場する虎御前が朝晩ここの井戸水で化粧をしたという逸話が残っている様です。
曾我兄弟の物語は2人の兄弟の父親が幼いころに殺害されてしまい20を超えた時分に仇討ちを果たすと言う物語です。日本3大仇討ちの1つにも数えられます。
曽我兄弟物語の詳細は説明していると長くなるのでWikipediaにお任せします(笑)

曾我兄弟の仇討ち - Wikipedia


松並木とおそらく榎が沢山植わっていました。
旧街道巡りをしていると思しき人たちも多くいて大きく育った松を見上げていました。

16番目の一里塚である化粧坂の一里塚です。
少しこんもりとしている所から生えているのでこれは当時の物なのだろうか。
再現性が高くて当時の物ではなく復元されたものって場合もあるので何とも言えませんが木自体がかなり大きいので樹齢もありそうですし当時のものって事で良いですかね(笑)

東海道本線が走っている為旧東海道はトンネルを潜って先を進みます。

こちらも先ほどと同じく松並木が気持ちよく続いております。
ただ途中数本とんでもなく傾いた松があって倒れてこないか心配になるレベルの状態です。
おそらく切らずにおいているという事は大丈夫なんでしょうが比較的海も近いですから台風等で倒木しないでいてくれることを切に願います。

大磯宿江戸方見附に到着しました。
いやぁ本当に平塚宿と近いですね(笑)これはちょっと無理して先を進みたいと思ってしまいますね。

ちなみに先ほどの新道を進むとここに接続されます。

大磯宿内散策


大磯宿内に入って少し歩いていくと大運寺と言う浄土宗の寺院があります。
こちらのお寺には木造阿弥陀如来坐像があり大磯町指定有形文化財となっています。
平安時代の木造らしくとても貴重な仏像のようです。
当日は通常の土曜日ですから見る事は出来ませんでしたが御開帳のタイミング等でお参りすることは出来るのではないでしょうか。
こちらのお寺の墓地を抜けたところにカフェがあると噂ですが自分は見つけられませんでした。
大磯の隠れスポットらしいですよ!

道を挟んでこちらは日蓮宗の寺院である延台寺になります。
こちらは曾我兄弟物語に登場する曾我兄弟や虎御前に所縁のあるお寺です。

境内には曾我兄弟を祀る曽我堂や虎御前の供養塔等があります。
春になると境内の桜も綺麗と地元では有名らしいです。

さてこの辺りは史跡が固まっています。
お次は大磯宿の本陣跡です。大磯宿には本陣が3件あったようです。

小島本陣の間取りが看板に掲載されていましたがとてつもなく大きいですね。
240坪前後の建坪があったようです。

現代の一般的な建売の家で平均30坪程度なので8件分の広さですね。
とは言え大名行列で江戸を目指す諸藩の一行は小さい藩でも100人前後の従者が居たようですから本陣だけでは足りず、大名や側近以外は本陣以外の脇本陣や旅籠、時には寺院に宿泊することもあったようです。

照が崎海岸入口の信号の分岐がある三角地帯に南組問屋場が置かれていました。
この辺りを下調べした際にも感じましたが明治維新を駆け抜けて明治時代を幕開けさせた要人たちを始め多くの著名人たちの別荘地にもなっており、歴史や国語の教科書で見聞きした名前が良く出てきます。

この南組問屋場の裏に新島襄終焉の地百足屋跡があったようです。少し前の大河ドラマで「八重の桜」という綾瀬はるかさん演じる八重の夫となった人です(演じたのはオダギリジョーさん)。
新島襄の人生は壮絶な物でしたが、目的を達するための行動力は素晴らしく同志社英学校を設立し現在の同志社大学の祖としても有名です。

旧東海道より少し外れた場所に島崎藤村の旧宅もあります。
その他にも岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)の別荘もあります。
海も近く温暖な気候が別荘地として人気を博したのかもしれませんがそれは明治期になってからのお話です。

立場跡は現在一般宅となっていますので遠巻きに撮影だけ。

鴫立庵(しぎたつあん)という庵がありました。
平安時代の歌人西行法師が詠んだ歌にちなみ草庵を結んだのが始まりだとか。
俳諧道場としては京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされる。
現在も庵主が歴代受け継がれている。

見学には300円ほどかかるが払っても損は無いと思うが、自分は時間が全くなかったため今回は諦めました。
鴫立川という川が流れているんですが少々臭いが気になりました。

さて気づけば上方見附まで辿り着いていました。
ざっと江戸方見附から上方見附までは1.4km程度なのでそこまで大きな宿場では無かったと思われるが、大磯宿の歴史は徳川家康が整備した江戸時代よりも前から宿場町として栄えていたという見方もあるので範囲は小さいが旅籠数は66ほどあり藤沢宿・平塚宿よりも多かったようです。

東海道松並木~旧吉田茂邸


大磯宿上方見附を過ぎてすぐに松並木が見えてきます。湘南エリアに入ってから松並木が良く見られるようになってきて風情を感じます。
この辺りは旧東海道を活用した道路もあるようなのでこういった風景も多く見られますね。

明治記念大磯邸園という場所に立ち寄りました。ここは明治時代の政治の中枢にいた大隈重信と陸奥宗光の邸宅があった場所になります。
見学にお金はかからず貴重な庭園を見学する事が出来ます。

大隈邸および陸奥邸は老朽化に伴い改修工事中で見学する事が出来ませんでしたが、あげや工事という珍しい工法を見る事が出来ました。

庭園は広く一番奥の陸に上がったところには東屋があります。

緑地を挟んで西湘バイパスと湘南の海が広がっているのですが、緑地の木々が茂っていて海が見えなかったのが残念でしたね。

明治記念大磯邸園は今回訪れたエリアとプリンスホテル別館跡と伊藤博文の邸宅である滄浪閣(そうろうかく)の部分を含めた部分を今後徐々に整備して開放していくとのことらしい。
大磯は明治期だけでなく高度成長期に別荘地として栄えましたが現在はその人気も落ち着き過剰に生まれた産物は徐々に取り壊されている様です。
東海道を直に歩いてその目で見るとやはり栄枯盛衰を感じますね。
1km程歩いた場所に旧吉田茂邸があります。こちらは戦後日本を立て直したとして有名ですね。明治・大正・昭和の政財界の要人たちが別荘地をこの大磯に持った訳です。

そしてこの旧吉田茂邸も無料で見学する事が出来ます。
この辺りは太っ腹と言いますか嬉しい誤算でした。

そしてこちらの庭園も非常に手入れが行き届いていて風情を感じますね。

少し丘の方へ足を運ぶと吉田茂像が満面の笑みで出迎えてくれます。
写真は逆光で申し訳ない・・・・。
吉田茂像のすぐ横は展望エリアのようになっていて遠くにはおそらく伊豆半島と箱根の山が見えますね。

海と山の風景って言うのは何だかとても日本的と勝手に思うところですがそういった風景を見るとふと歩きに来て良かったなぁとしみじみ思いました。

国府一里塚~六所神社


旧吉田茂邸をあとにして小田原宿を目指しますが、旧吉田茂邸が面している道路は新道になるので道をそれます。

これと言った場所もなく歩みを進めてまた新道と合流する少し手前に一里塚跡がありました。
こちらは国府本郷の一里塚で日本橋から17里目の一里塚になります。
ここからまた少し松並木が復活しますね。

このあたりから道祖神を頻繁に目撃する様になります。
村境や分かれ道に置かれることが多く、村の守り神としての位置づけが成されていたそうです。後に旅の安全や縁結び、子孫繁栄など祈願する身近な神様として祀られていたんですね。

国府の座問答の標石と言うものがありました。
前回訪れた平塚八幡宮も出てくるこの話は大化の改新によって相模の國が生まれる事となり国司が赴任する事となりました。

相武(さがむ)と磯長(しなが)と言う国が統合されて出来た国なので元々はそれぞれに一宮神社(いちのみや)があった訳ですね。
それが統合した訳ですからどちらを先に巡拝するかを巡っていざこざが起きた訳です。
現在でも有名な寒川神社と川勾神社の両社が一宮の座を巡り互いに譲らない状況となりそれを比々多神社と前鳥神社・平塚八幡宮が仲裁をしたと言う故事に基づき儀式化したものとのことです。
ちなみに今から向かう相模総社六所神社と寒川・川勾・比々多・前鳥を相模5社と言い、そこに平塚八幡宮を含めた全てを巡りお参りする事を相模国六所巡りと言う。
解決方法はとりあえず「先送り」にしようって話になったようですが、現在は寒川神社が相模一宮という事になっていますのでどこかで決着がついたんですね。

さてそんなこんなで東海道沿いに六所神社の鳥居が現れました。
こちらを通って六所神社へ向かいます。

途中東海道本線が走っているのでトンネルを抜けますが元々は東海道から六所神社までの参道であったことから道路にやけにでかいしめ縄が巻かれた欅が現れます。

札を見るに樹齢は600年という事で室町時代からこの地に根を生やしている事になりますね。
元々はもっと多くの木が植わっていたのかもしれませんが、現在は2本の欅が残っているだけです。
とは言えどちらも樹齢600年ですから大したものです。

相模総社と言いますが規模感としてはそこまで大きな神社ではありません。
前回訪れた平塚八幡宮の方が広いかもしれません。

ただこちらは総社と言うだけあり源頼朝を始め小田原北条氏や徳川家康からも崇敬され敷地内にある石垣は小田原北条氏が造営したとされており、今も当時の姿を残しています。

東海道に戻り小田原を目指します。
また旧街道と道が分かれる為注意して進みます。
こちらにも大きな鳥居が現れました。

吾妻神社鳥居と書かれておりますが神社はどこに・・・・。
進んでみると東海道本線にぶつかってしまいました。

陸橋を渡ってみるとまた鳥居がありましたが神社は見当たらない。

調べてみると神社自体は山の上にあるようでした。
今回はお参りは断念して東海道へ戻ります。
よくよく考えてみたら吾妻山ってよく聞く名前じゃんか!って思いましたがここにあったのですね。
次回訪問する事があるならこちらから吾妻神社をお参りしたのち吾妻山公園で一休みするのも良いかもと思いました。

生竜


改めて新道とぶつかったところでそろそろ腹ごしらえをしなければエネルギー切れで歩けなくなると思い立ち昼食をとることに。
リサーチの際に調べていたラーメン屋さんへ行ってみました。

メニュー表を見ると割と何でもやっている系のラーメン屋さんみたいで、お客さんも思い思いのラーメンを注文している雰囲気でした。

自分は鳥そばを頂きました。
非常にシンプルな装いで鳥のチャーシュー?いや鳥肉冷製の様な物が3枚(たぶん)付いてきました。普通の塩ラーメンだったら1枚だったのかな?
食通ではないので何と表現したらいいのか難しいのですがとても柔らかく少し生の様な歯ざわり?・・・・すみません(笑)
不思議なとにかく不思議な食感でしたが塩ラーメンとの取り合わせはしっかり合っていたように思います。
値段もリーズナブルな価格帯で満足感ありでした!
でも高校生とかの食べ盛りさんたちは大盛にした方が良いです!!
ごちそうさまでした!!

押切坂の一里塚~酒匂川の渡し跡


腹も膨らんで大満足ではあるものの時間的には押してきているので急がねばと先をいそいで少しすると押切坂の分岐に差し掛かりました。
向かって左側が旧街道になりますのでそちらを進みますが、その分岐に一里塚を発見しました。
こちらは18番目の押切坂一里塚になります。

一里塚をチェックしていると日本橋からついにここまで来たかぁと思う反面、三条大橋に付くのはいつのことやらと気が遠くなります。
この先は酒匂川越えも控えていた事や小田原・大磯宿間としても中間の位置にあることから間の宿として人気があったようです。
間の宿は53次とは違いますので基本的には旅籠経営は許可されていなかったはずですが、ここは本陣が置かれるほど賑わいがあり当時の要人が泊まった御休帳も残っている事から幕府公認の間の宿だったと思われます。
現在は全く見る影もないのですが富嶽三十六景の相州梅澤左という安藤広重の作人に登場する地でもあるのでここからの景色は良かったようです。
現在はその景色を楽しめるような眺望があったようには思えませんでしたがどうなのでしょう?

当時を偲ぶことは出来ないのですが、こちらは現代では箱根駅伝応援の聖地となっていますね。
よくフリーザー軍団やコスプレをした人たちが映り込むところです。

自分としては肯定も否定もしませんが近隣には住宅もありますので節度を守って応援できると良いですよね。

中村川というを渡り押切橋の交差点を過ぎると小田原市の看板が見えてきました。
ついに小田原へ足を踏み入れた訳ですね!

こうなってくると小田原宿は近いのかと考えたくなりますがここからが長丁場になります。

小田原市に入ったと思っていたらまた二宮町に戻っていたなんて思っていたらまた小田原市に入っていたみたいな「何を言っているか分からねーと思うが・・・」てな感じのポルナレフ現象にも陥りながら先を急ぎます。

途中浅間神社があったのでお参りをしましたが鳥居を分けて道があってなかなか面白い光景でした。
さて途中車坂の碑なる看板がありました。
この地にちなんだ歌を詠んだ人たちの歌か掲載されていました。
その中に源実朝の名がありましたがこの旅をしている時期はちょうど大河ドラマの鎌倉殿の13人が放送されていて源実朝が歌を詠むシーンなどが思い浮かんでいました。
最終的には28歳と言う若さでそれも甥っ子に殺されると言う悲しい最期を迎える。
最高権力者であるはずの鎌倉幕府の将軍は側近や御家人だけでなく京の権力者たちに翻弄される辛い一生だったのではないかと思うと胸が痛む。

車坂の碑からほんの少し歩いたところに是より大山道の道標が現れました。
茅ケ崎の方にあった大山道入口にも不動明王が祀られていましたがこちらにも不動明王が道標の上に鎮座していますね。
マップを見る限りこの道が大山道だ!という風にはちょっとわからないのでこちらはまた改めて勉強しなければならないと考えています。
日も傾いてきいよいよ道を急がなければならないと歩き出しましたがここから先はほぼ新道を進んでいきます。
急いで入るものの途中道をそれていくつかのお寺をお参りしましたが今回は割愛。

さらにここに19番目の小八幡の一里塚があったのですがマップ上で見つけられずという失態を犯してしまいました。

さらに先を進むと現在は社会福祉法人ゆりかご園となっていますが旧川辺本陣跡とされており、建物が当時の面影を残しているかは外からしか見ることは出来ないのですが重厚な日本家屋が奥に見えます。

さてついに小田原宿へ入る最後の砦酒匂川へ到着いたしました。
現在時刻は15時50分・・・・当時であればここから小田原へ舟を渡してもらう事は出来なかったんじゃないかと思ってしまいますが、今は橋がありますからね(笑)
ここはしっかり酒匂川の渡し碑も写真に収めてから渡ることとします。

石碑を読むとこの川は浅いこともあったのか冬場は仮橋を掛けて渡り、夏場は舟ではなく人足(肩車や輦台)等でお金を払って渡らなければならなかったようです。

時期も11月という事もあり渇水期には入ってきているので橋の真ん中はこんな感じで大きな中洲のようになっています。

梅雨時期になるとここも浸水するんでしょうかね?

江戸方見附跡


さていよいよ日が暮れてしまうというか暮れちゃいましたけど何とか無事小田原宿へ到着する事が出来ました。
今日は平塚宿から大磯宿を経由してここまで来ましたのでずいぶん長い道のりを歩いたものだと自らに感心してしまいました。
ただ時間も時間なので小田原宿をほとんど堪能できずに帰宅することになりますので次回訪問時は小田原宿場を見物したいと思います。

総括

最後に書いてしまったのですが小田原宿というより小田原という場所は小田原北条氏が治めていたころに目覚ましい発展を遂げたこともあり現在もその名残がそこかしこに残っているようです。
実際小田原市街地のほど近いところに神社仏閣が多く存在しているなど城下町と密接に寺社が結びついていたのではないかと推察します。
小田原北条氏の治世は悪いものではなかったと聞きますし、小田原城を中心に町すべてが大きな城塞となっていたことは有名ですよね。
そういった面で見るとこの小田原宿は1日かけて探索しても見切れないほどの遺構が残っているんではと思います。
今回は制限時間いっぱいの到着だったので触り程度と言うか、小田原駅へ向かう道すがらしか見ていないのでやはり時間をしっかり作って再訪したいと思います。

余談


せっかく小田原に来たので蒲鉾を買って帰りました。
鈴廣・籠清なんかは有名ですがよくお土産でもらうのであまり聞きなじみのないところで買って帰りました。
アラカルトの様なものを買ってみたんですが美味しかったです。
でもやっぱり有名店の奴のほうがおいしいかなぁ・・・・(笑)

小田原宿を探訪しに来る場合は時間に余裕をもって歩かれることをお薦めします。
大磯宿から小田原宿までの道すがらも自分が見落としてしまっている遺構はあるのかもしれませんが距離に対して目的地が遠いのもあり自転車で移動したいという気持ちが芽生えました。
この辺りは難しいですね。
また次回の記事で!

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