どうも、さかもつです!
記事が間延びしそうでしたので今回は2記事に分けて更新することにいたしました。
前回は神奈川宿から程ヶ谷宿までの道のりでしたが、今回は程ヶ谷宿から戸塚宿を経由して藤沢宿迄の話になります。
日程としては同日の話になりますので前回記事と完全につながっておりますのでよろしくお願い板います。
旧東海道の旅4日目 神奈川宿~藤沢宿
地図上にも出ておりますが程ヶ谷宿上方見附跡まで進み今回は藤沢宿江戸見附跡まで進みます。
距離としては前回の記事でまだ4分の1程度しか進んでいないのですが、ここからは割と遺構が残って居なかったりしてとにかく歩くだけの区間もあります。
好きでやっているので自分は構わないのですが、何もない区間をただ歩くだけってのも相当退屈でして宿場町だけ巡って道中の道は歩かない人が居るのも何となく頷けます。
もし道中も歩いて走破したいと考える人が居るならば、あまりにも何もないところに食事休憩突っ込んだり邪道だけど東海道と関係ない部分を見て回るってものありかと思います。
旅の楽しみ方は人それぞれですから自分が納得できる楽しみ方を突き詰めていきたいですね!
程ヶ谷宿~藤沢宿までの主な史跡・遺構。
- 旧元町橋跡
- 旧東海道権太坂 PICKUP
- 投げ込み塚跡 PICKUP
- 茶屋若林 PICKUP
- 境木立場跡 PICKUP
- 境木地蔵尊
- 萩原代官所跡
- 焼餅坂 PICKUP
- 品濃一里塚跡 PICKUP
- 東海道品濃坂
- 赤関橋案内図
- 提灯立場跡
- 不動坂案内図
- 元舞橋案内図
- 戸塚宿江戸方見附 PICKUP
- 吉田一里塚跡
- 広重の浮世絵 PICKUP
- 清源院
- 戸塚内田本陣跡
- 脇本陣跡
- 澤邉本陣跡 PICKUP
- 八坂神社
- これより鎌倉
- 冨塚八幡宮 PICKUP
- 上方見附跡 PICKUP
旧東海道権太坂
上方見附跡を背に今度はわき道を進みます。
現在の東海道は立派な幹線道路となっておりますが旧東海道もわき道として今も近隣住民の方たちの生活に根付いて居るわけですね。
立て看板があるのもありがたいです。
この場所見たくわかりやすい場所は良いですが国道1号線から出たり入ったりするような道もあって気を緩めると新道を歩き続けてしまうなんて事もあるんです。
元町橋跡と元町ガードを通り過ぎて次の有名スポットはこちらの権太坂。
おそらく権太坂(ごんたざか)という名称は聞いたことがある人も良いと思います。
まず正月に行われている箱根駅伝「花の2区」の名所としても有名ですね。
とは言いましてもあちらの権太坂は新道の方になりますが、こちらは旧道の権太坂になります。
所謂本命の方って奴ですね。
写真左側を進むと国道1号線に出ることが出来ます。
右側の坂道を進むと権太坂になります。
いまいち伝わりにくいかもしれませんがかなりの急こう配になっております。
奥に見える赤い建物で上り坂が終わるわけではなくその先もずっと上り坂になっております。
赤い建物の手間位にある橋から麓を見下ろすように撮ってみました。
マニュアル車だったら4速じゃ上らない勾配です。
権太坂の丁度中腹地点に道標と説明版が立っていました。
本当かどうかはわかりませんけど権太坂と呼ばれるようになった由来が書かれています。
こちらの看板によると旅人が道端にいた老齢の農民に坂道の名前を尋ねたところ、老人は耳が遠く自らの名前を聞かれたと思い「権太」と答えたためと言われているようです。
少し進んだ小学校の近くにもう一つ看板が立てらていました。
そこには上記に書いた老人の返事説のほかに権左坂ではないかという説が唱えられております。
都市伝説で有名なハローバイバイ・関暁夫の信じるか信じないかはあなた次第です的な奴ですね。(違
投げ込み塚跡
権太坂を登り切ったあたりでうっすらと富士山が見えました。
白んでいてよくわかりませんが当時の旅人たちもこの辺りから富士山を眺めたのかもしれません。
前回の神奈川宿編でも述べましたが現在の横浜駅周辺は埋め立てされた土地になります。
ですので割と近いところまで海があったわけです。
この権太坂からも海を眺めることが出来たらいいのですが、現在は全く海を感じることは出来ません。
富士山だけは不動のものですから当時の感覚とリンクできるのは富士山の眺望かもしれませんね。
さて権太坂から少し外れた場所にこの投げ込み塚があります。
今の世の中から想像するのは難しいかもしれませんが、当時の道は現代のようなアスファルト舗装ではありません。
砂利道でもなかったでしょうから重い荷物を運びながらこの坂道を往くのは相当に厳しかったようです。
雨の日はぬかるみにハマり滑落する人もいたそうです。
1960年代に再開発された際、多くの人骨と動物(馬)の骨が出土したそうだ。
この坂道で亡くなった人や動物を投げ込む井戸があったと言われている。
ロマンを感じながら歩いていると途端に悲しい歴史の一端を目撃する。
転んでケガをしたりそれこそ滑落して足の骨を折ったとしても救急車何てないわけだから、這い上がることが出来なければその場で死ぬこととなる。
旅の道中病気になり無理を押して進んだ先で力尽きるなんてことが当時は往々にしてあったのだろう。
仕方がなかったという訳では無いにしろ命がけだったというのも頷ける。
茶屋若林
丁度権太坂を登り切った頂上付近というべきところに茶屋若林はあったそうです。
現在は茶屋はありませんが若林さんが住んでいるようでとても立派な門がありました。
一般の住宅という事もありパシャパシャ写真を撮るのも失礼ですから遠巻きに1枚だけ。
江戸から進んでここが頂上という事はまた下りがあるわけです。
この土地は難所を超えてきた旅人たちで大いに賑わる立場(たてば)となったそうで、若林家以外にも数件の茶屋が存在したそうです。
その中でもこの若林家は明治天皇が行幸した際にも立ち寄られたことがある茶屋であったと言われています。
境木立場跡
境木立場は上記でも記載したように程ヶ谷側から権太坂を登り切った旅人や戸塚側から品濃坂・焼餅坂を上り切った人々の休憩場所としてとても栄えたようです。
数件の茶屋があり牡丹餅をふるまったともいわれています。
ここには境木不動尊という地蔵尊があり旅人たちが旅の無事を祈願したという逸話が残っている。
さらに境木という地名については武蔵野国と相模の国の丁度境界線にあたる場所という由来があるそうだ。
焼餅坂
境木立場から戸塚宿へ向かってすぐ下り坂があります。
こちらの名前は焼餅坂。
理由はこの坂道の傍らで焼餅をふるまう茶屋があったことから。
別名牡丹餅坂とも呼ばれているそうな・・・・・と言っても今はただの坂です(笑)
ここの坂もかなりの勾配となっていて当時の旅人たちからすればここにあった焼餅茶屋で食べる焼餅もしくは牡丹餅はホントに美味しかったんだろうなと想像に易いです。
今書く事じゃないかもしれませんが、この旅が終わって帰宅した後に風呂に入って汗を流します。そして冷えたビールを飲みますと普段のビールよりも味が鮮明に感じられるんですよ。
人間疲れると味覚が鋭くなるようでして塩味や甘味は特に沁みたでしょうねぇ。
立て看板にはこう書かれております。
焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160m)の坂道でした。
坂の傍らの茶店で焼餅を商っていたので焼餅坂と名付けられたと言います。
別名牡丹餅坂とも呼ばれています。戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。
先ほどの境木立場からこちら側はもう戸塚という事で程ヶ谷とはお別れの様です。
程ヶ谷宿もいくつかの主要道に接している事もあって大変にぎわったとされていますが戸塚宿も同じように主要道が接続されていました。
程ヶ谷宿と戸塚宿は客の取り合いをすることとなっていきますが立地や前後の宿場の関係上程ヶ谷宿は徐々に戸塚宿に客を取られていくこととなるようです。
品濃一里塚跡
江戸方から数えて9番目の一里塚。
自分の旅も36km地点まで来たのかと思うと同時に神奈川県内最後の宿場である箱根宿までまだ50km以上もあるのかと思うとまだまだ道半ばですね。
木がうっそうとしていていまいち分かりにくかったのですが当時の配置をそのまま残している様で神奈川県内ではこの品濃一里塚が唯一のようです。
元々は旧東海道を挟んで品濃村・平戸村にそれぞれ一里塚が設けられていたようで、この写真は品濃村側のものになります。
反対側の写真を撮り忘れていますが同じように小山になっていて木がうっそうとしておりました。
ここから境木立場まではそれなりに勾配があるものの権太坂よりはたやすく行ける雰囲気でした。
村もあってそれなりに開けていたこともあっておそらく程ヶ谷から歩いてきた旅人たちもこの一里塚まで辿り着いた時はホッと胸をなでおろすでしょうね。
現代もこの辺りは起伏の激しい土地でして当時の通行は難儀したでしょうね。
実際江戸から神奈川宿までは多摩川を渡船するという一大イベントはあったにせよ平坦な道のりでしたが、程ヶ谷を過ぎたあたりから山道が目立つようになってきました。
実際ここから戸塚駅を目指して進んでいきますがその手前の東戸塚駅近辺までは緩やかに下って、その先は一気に下るような道のりです。
戸塚宿を出て境木立場まで進むのは権太坂を行くのと同じくらい大変だったでしょうね。
戸塚宿江戸方見附
品濃坂に差し掛かるちょっと手前の所でまた富士山が見えました。
今でこそこの辺りは発展しておりますが当時は遠くまで良く見渡せたんでしょうね。
品濃坂歩道橋から鎌倉方面を望みます。
とにかく天気が悪くて・・・カラッと晴れていたらもう少し眺望がよさそうなものだけど。
歩道橋を降りてこの坂道を下ってきました。
おそらく品濃一里塚の辺りから考えるとかなり標高としては下がりましたね。
ですから戸塚宿から程ヶ谷宿を目指した場合はこちらも長い坂道を進んでいくことになった訳ですね。
赤関橋からまた富士山が。
ここは不動坂の交差点。
地元の人であれば分かると思いますが滅茶苦茶渋滞が発生する交差点です。
写真に戸塚方面の看板が出ておりますが、左へ曲がると戸塚駅へぶつかります。
真っ直ぐ進めば藤沢方面へ続く国道1号線となります。
箱根駅伝は国道1号線をそのまま進んでいきますね。
不動坂交差点からほどなくして戸塚宿江戸方見附に到着です。
この日2宿場目となる戸塚宿に入ったことになります。
戸塚の町は戸塚宿の賑わいを現代に落とし込んだように街が発展したような雰囲気があります。
江戸方見附から京方見附までの間に街並みが形成されており、この先京方見附を過ぎると商業施設が減り住宅地が増える街道筋となるイメージで非常に分かりやすいです。
戸塚宿も例にもれず升形造りの街並みとなっていて上記写真の赤線部分が宿場地内になりますが2回折れる事で見通しが立たないような街並みになっていますね。
広重の浮世絵
吉田大橋交差点の片隅に安藤広重が戸塚宿の賑わいを描いた浮世絵のモデルがこの辺りであるという銘板があります。
戸塚区区制50周年記念で建てられたようです。
色あせてしまっていますが下記にダウンロードしてきた浮世絵を載せておきます。
キャノンのウェブサイトからダウンロードできます。
広重の浮世絵と忠実に現地を回るなんていう旅も面白いかもしれませんね。
この吉田大橋を直進すると戸塚駅方面に進みます。
戸塚宿への入口になりまして、左側に折れますとかまくら道となるようです。
浮世絵の中央に常夜燈と共に道標が描かれていますがそちらにも「左り かまくら道」と書かれていますね。
澤邉本陣跡
こちらは澤邉本陣跡になります。
凄い勢いで色々な所をすっ飛ばしてきました。
ただ理由がございます。
跡地ばかりで立て看板1つしかたっていなかったり、駅前で人が多すぎてプライバシーに配慮したりと色々思案していたら写真撮るのも億劫になりまして(笑)
時間もない事ですから先に進もうという事でここまで来ちゃいました。
戸塚宿には2つの本陣があったそうです。
1つはこの澤邉本陣。
もう1つは戸塚駅付近にありました。
今は跡地に銀行が経っていますがそちらも看板のみという事ですっ飛ばしました。
大体○○本陣とついている○○はその地方の名士の苗字ですね。
こちらの澤邉本陣も例外ではなく澤邉宗三さんが、戸塚宿開設時のご当主として宿場の発展と本陣の切り盛りを行ったわけですね。
間取りも載っているんですけどこちらの横にある駐車場も敷地であったのではないかと思います。
裏手には羽黒神社が今も現存している様ですが今回は訪ねませんでした。
なお今もこちらには澤邉さんがお住いの様ですので、見学の際はあまりご迷惑にならないように気を付けましょう。
おそらく澤邉本陣をあやかったお店が向かいにありました。
おもてなしの館 きじま本陣 よろしくお願いいたします。(勝手に宣伝していくスタイル)
ちなみにお高そうです。
冨塚八幡宮
澤邉本陣を後にして上方見附方面へ歩みを進めると神社が現れます。
こちらは冨塚八幡宮(とみづか)と呼ばれておりまして、社名のとみづかが形を変えて「とつか」の地名の由来になったという話もあるようです。
ご祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で源氏や平氏と言った武士の家柄から崇敬を集めた神様の様です。
応神天皇と同一とされている。
神仏習合の話では八幡大菩薩と呼ばれておりこちらの方が聞き覚えがある人も多いかもしれません。
息を切らして石段を登ると本殿の前に2体の狛犬が見えてきました。
よく見ると子供の狛犬を守るように抱えていますね。
この光景大田区にある磐井神社の狛犬と構図が一緒ですね。
こちらには子宝の言い伝えは無さそうです。
石造ですのでどうしても雨ざらしになるので、割と古めかしく見えるものも多いのですがこちらの狛犬は江戸期の製作のようです。
天保12年(1841年)に内山さんによって奉献されたようですね。
当時の日本の技術者はレベルが高く、この後訪れる外国人たちから非常に高い評価を得ていたようです。
現代アートとは少し色合いが違いますがこの狛犬を製作した石工の熱を感じられますね。
文政4年(1821年)の文字が彫られていますね。
旧東海道の旅をしていると道の脇に突然江戸期の物が出現するのでやはり歴史のある道なのだなと感心します。
それに加えて残そうとされている方々の努力を感じますね。
上方見附跡
戸塚駅を過ぎて澤邊本陣跡も通り過ぎてついに戸塚宿も終わりを迎えます。
上方見附に至るまでは約2.2kmのあり規模感としては大きな宿場だったと感じました。
こちらの道は今に至るまでに改装工事を行ってきていると思われますので現存するものではないでしょう。
ただ看板の写真を見るに物凄く立派な作りだったという訳ではなさそうです。
こちら側の囲いには松が植えられており下の写真にある反対側は楓の木が植わっていました。
現在は裏手にローソンがあり目の前にバス停がありますのでこの辺りに住んでいる方や職場への最寄りバス停にしている方々は日々目にしているかもしれませんね。
物凄くわかりずらいのですが反対車線のバス停の横にあるちっちゃな生垣みたいなものが反対側の囲いになります。
なかなか当時の姿を残すのは難しいことなので仕方がないことですが、復元にしろ移設にしろここに上方見附があったんだという事を知らせてくれるシンボルであることには間違いないですからこれからも大事にしたいですね。
そしてここから藤沢宿への道のりが始まります。
戸塚宿~藤沢宿までの主な史跡・遺構。
- 大阪
- 自家製面カミカゼ 戸塚中継所見学 PICKUP
- 大阪松並木跡
- お軽勘平戸塚山中道行の場の碑
- 原宿一里塚跡
- 影取立場跡
- 影取池案内図
- 鉄砲宿
- 旧東海道松並木跡 PICKUP
- 遊行寺坂 PICKUP
- 長生院
- 遊行寺・藤沢宿江戸見附跡 PICKUP
自家製面カミカゼ 戸塚中継所見学
上方見附の説明文にも書かれていましたが、見附を超えると大阪と呼ばれる長い坂が続きます。
勾配はそこまでではないですが約1kmずっと上り続けます。
現在はアスファルト舗装がされていますが当時は不陸地で所謂ダートと呼ばれるようなものでしたでしょうから歩きにくかったと思います。
それに比べれば平らで凹凸がない現在の大阪を息を切らして歩く己の非力さですよ(笑)
ここで少々寄り道をします・・・・というかかなり遅めの昼飯です。
旧東海道の旅を始めるにあたって出来るだけ当地の飲食店でお昼を食べようとか考えて計画を練るんですがどうしても時間通りに行かずお店の営業時間とかみ合わない何てこともあるんですよ。
ただどうしてもこのカミカゼさんは行ってみたかったのですよ!
なぜかって言うとおそらくこの写真を見ると気づく方も多いかと思いますが、そう!ここは箱根駅伝花の2区の終着点「戸塚中継所」です。
(写真は復路の戸塚中継所トヨタカローラさんの敷地を使用)
そしてこちらが往路の戸塚中継所入口ですね。
正月のテレビ中継でも左側のタックルベリーさんが印象的な中継所ですが実はその奥に崎陽軒さんと今回寄らせていただいた「自家製面 カミカゼ」さんがございます。
お店の雰囲気としてはこんな感じです。
この場所自体は国道1号線から車で入ることもできますが徒歩で来るとなると戸塚警察署前の交差点からここまで歩いてこなければなりません。
立地は消して良いとは思えませんがグーグルマップじょうの口コミも高評価を得ておりました。
名前が厳ついので厳つい店員さんが強面に出迎えてくれるのかと思いましたが明るい笑顔の女性の方が出迎えてくれました。
この時期は2022年10月ということもありコロナウイルスがそれなりに流行っておりました。
店内への入店もガイドラインに則っての事でしたでしょうから本来は直ぐに入れるところ少し外で待つことに。
時間が昼の部終了間近でしたのでそこまでお客さんは居ませんでしたがピークタイムは行列が出来そうですね。
今回は醤油ラーメン(並)を注文いたしました。
他にも中華そば・塩ラーメン・焦しねぎラーメンやチャーシューライスなどがありお値段も割とリーズナブルでしたね。
味の方ですが見た目の通りシンプルな感じでした。
ただ自分の場合はずっと歩いてきて疲労感が溜まっていたので割と味は濃く感じたんですがおそらく普通のお昼時に食べたらそこまで塩味は感じずさっぱりとした味わいのラーメンかと思います。
チャーシューが柔らかく・メンマも極端な主張がなくて全体的に纏まったラーメンかと思います。
とは言えラーメン評論家でも何でもございませんので個人の感想です(笑)
ラーメンも種類と言うか〇〇系みたいな系統が増えてきている中こちらのラーメンは昔ながらの味というんですかね。
ガツンとニンニク利かして背油たっぷり!!的なのが好きな人からすれば物足りないでしょうな。
量はそれほど多くないと思います。
食べ盛りの若者たちであれば(大)一択でしょう!
チャーシューライスも美味しそうでしたから頂きたかったんですけど、これからまだ歩くことを考えるとガッツリ行くのは下策・・・・・諦めました。
面白いネーミングですね。
ちょっとしたパーキングのような感じになっていますが来店の際は車のほうがアクセスが良いですよ。
ただ先客がいると車を止められない場合もあります。
そのあたりは注意してください!
崎陽軒さんにシューマイなのか弁当なのかわかりませんが買いに来ている人も結構いましたよ。
旧東海道松並木跡
さてお昼ご飯も食べて力が湧いてきたところで藤沢宿への道のりを急ぎます。
ここから藤沢宿江戸方見附までは約6km。
普通に歩けば1時間程度の道のりですが写真をとったり寄り道したりと2倍はかかりますんで日没をきにしつつ歩きます。
旧東海道はカミカゼがあった場所を境にしてこの国道1号線に合流します。
感の良い方は分かっていただけるかと思いますがこちらは日本のメイン道路になりますので当時の道は改修されてしまっております。
ですから遺構の様なものは基本的には復元・移設という形になっておりあまり特筆するようなものもないように思いました。
今も大改修工事ちゅうでして雰囲気的にはこんな感じでございます。
ですので割と道を歩いているだけという感じですが、そんなおりにも雲間から太陽の光が差し込む先に富士山を発見して写真をパシャパシャと。
ここは原宿一里塚跡があるはずなんですが看板も見当たりませんでした。
移設されて別のところにある可能性も否めなかったのですが時間がないため捜索は断念して先を急ぎます。
そうこう歩いているとこういった古めかしい石像がいきなり現れたりするんですよね。
旧東海道は割と狭い感覚で道祖神(どうそじん)が置かれています。
道祖神(どうそじん、どうそしん)は、村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神である。のちには縁結びの神、旅行安全の神、子どもと親しい神とされ、男根形の自然石、石に文字や像を刻んだものなどがある。 Wikipediaより引用。
道祖神は日本のアニミズムを象徴するような信仰ではないかと思っていますが、上記説明のように特に決まったものを祀る(まつる)というよりは、あらゆる願いを込めて作られ信仰された神様です。
自分も見かけると手を合わせるようにしていますが、旅の道での不幸がないようにお願いしています。
影取町の滅茶苦茶込み合う交差点を過ぎて程なく歩いたあたりで側道へそれます。
こちらからまた国道1号線をそれていくのですがその道中2つのおにぎりを発見しました。
片方は車に轢かれてぺちゃんこになっていましたがどういうシチュエーションでおにぎり落としたんか気になって仕方なかったんで、一度は通り過ぎたものの戻って写真を撮ることにしました。
流石にゴミ袋もなかったんで回収はしませんでしたけどちょっと未知の片隅に寄せときました。
昔ならおにぎり2個落としたら命に係わるぜ!!
さて反対車線ですが旧東海道松並木跡碑になります。
当時の松並木の松が今も現存しているという事ですね。
松を見ると街道旅っぽい!とか東海道っぽいとテンションが上がりますが、この先結構沢山目にするようになると「ふーん」くらいになるんですが、ここは序盤ですからとりあえず写真に収めました。(でも面倒くさがって渡らず)
遊行寺坂
この辺りは箱根駅伝の名所が多くて個人的にとてもテンションが上がっていました。
この地に足を踏み入れるのは今回が初めてで遊行寺に向かうのもこれが初めての事です。
今回旧東海道の旅をやってみようと思わなければもしかすると生涯訪れることの無い場所だったかもしれません。
語弊があるかもしれませんから断っておくと、藤沢と言いますかこちらの地域に訪れる価値が無いとかそう言うことでは無いのです。
日本と言う国は思っている以上に広いんです。
だから辿り着かずに生涯を終えるなんて事は逆に言ってしまえば普通なのかもしれません。
我々は知っている様で知らないんですよ日本と言う自分の国を。
さて歩道橋から藤沢方面の下り坂を1枚。
先に見えるカーブを曲がりきると遊行寺が見えてきます。
かなり長い事下り坂が続いているので箱根駅伝としての区間ではスピードが出る場所になりますね。
こちらは戸塚宿方面をとらえた写真です。
勾配こそ大したことありませんけどずっと緩やかな上り坂が続いていて箱根駅伝の復路では苦しい区間となります。
少し先に進んでみてもまだまだ下り坂が続きます。
距離にすると約1.5km程の長い坂道になります。
今回は下りという事で辛さは感じなかったんですけど、この道を上り坂方面に向かっていくとなると少々躊躇しますね(笑)
戸塚宿方面も撮ってみましたが先の方で上り坂が終わると思ってたらまだまだ続きますからね。
当時の道はダートですから雨の日なんかは最悪だったでしょうね。
遊行寺・藤沢宿江戸見附跡
ついに藤沢宿に到着!の一歩手前に遊行寺坂の一里塚跡の看板を見つけました。
遊行寺坂で認識しておりましたが古くは道場(どうじょう)坂と呼ばれていたそうです。
現在の道は当時の道より掘り下げられている様で当時よりも斜度が大きいのかもしれません。
一里塚も崖上にあったようですが今は何も残っていないようです。
ただ看板の絵を見てもこの坂が藤沢宿を象徴する坂であったことは間違いなさそうですね。
さぁ今度こそ藤沢宿江戸方見附に到着という事で藤沢宿に入りました!!!
いやぁ長かった・・・・今回は本当に長かった(笑)
看板1つしか置かれていませんがここには江戸方見附があったようです。
現在の遊行寺坂の道幅もそこまで広い訳ではありませんが、説明書きをみるとそこまで広い道では無かったようで説明書きの絵は道幅を誇張して描かれているとか(笑)
遊行寺に到着した時にはもう日没すれすれの時間となってしまいました。
流石に素通りして帰るのも忍びないのでお参りをして少し休憩させていただきました。
次回はこの遊行寺からスタートすることになるのですが、ここから最寄りの駅が藤沢駅もしくは藤沢本町駅なので若干距離があるんですよ。
途中からスタートはやはり無粋ですからここまで戻るつもりですが出来ればもう少し歩みを進めたかったですね。
藤沢宿まで到着してみて。
今回の道のりはかなりきつかったです。
旅としては4日目になりまして足腰がそれなりについてくるようになったものの坂道も多くて疲れました。
藤沢宿まで到着してみてと言っても全く藤沢宿を堪能できていないので次回のお楽しみという事に。
今回日本橋から箱根宿までを1シリーズとして考えている中でここ藤沢宿はちょうど半分と言ったところでしょうか。
次回は藤沢宿から平塚宿まで進みます!
それではまた次の記事で!
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