どうも、さかもつです。
旧東海道を踏破したいと思い立って9月ごろより準備を進めていたのですが、やっと初日を迎える事が出来たのは10月1日(土)。
有難くも天候は穏やかな晴れで企画初日を祝うようないい天気でした。
8時半に読売新聞前社到着し近隣の史跡や遺構を回って日本橋に向かい旧東海道を歩み始めると言うのが当初の予定でした。
結果から申し上げると遺構と史跡を巡る時間と自分自身の基礎体力の掛け算を誤りまして予定の半分で初日を終える事になります。
初日の結果はこの後の予定決めに大きく影響を与えると共に自身の体力に関する過信、計画性の乏しさを改めて自戒させてくれる良い経験となりました。
さて長々と反省を述べていても仕方が無いので早速記事を書き進めてまいりましょう。
旧東海道の旅 日本橋~品川宿の道のり。
日本橋から品川宿の江戸見附付近への距離は約8km。
グーグルマップが示す所要時間は1時間45分とそこまでの距離ではありません。
特に何も見ずにただ歩くだけであれば2時間程度時間を見ておけば踏破することは十分可能です。特に目的を持たずウォーキングをするのに飽きているのであれば宿場間を歩いて歴史に触れつつ健康も向上させる何てのも良いかもしれませんね。
日本橋から品川宿までの主な史跡と遺構。
- 日本国道路元標複製 PICKUP
- 日本橋麒麟像 PICKUP
- 名水白木屋の井戸(工事現場の路地)
- 歌川広重宅跡(裏路地何もない)
- 江戸歌舞伎発祥の地 PICKUP
- 経綸の碑・京橋記念碑
- 三越ライオン像
- 銀座柳
- 日比谷神社
- イタリア街
- 御成門 PICKUP
- 有章院霊廟二天門 PICKUP
- 増上寺 PICKUP
- 芝大門
- 薩摩藩屋敷跡(現在工事中)
- 高輪大木戸跡 PICKUP
- 泉岳寺 PICKUP
- 品川宿入口・八つ山口
日本国道路元標複製
こちらにあるのは日本国道路元標の複製となっており本物は日本橋のど真ん中に埋め込まれています。
私が訪れたの土曜日という事もあり殆どの会社が休業という事で人も車両も少なかったので見ようと思えば見れたのですが、道のど真ん中に歩み出て写真をパシャっと撮るのは如何なものかと思いまして遠巻きにですが1枚写真におさめました。
この道路原標は主要国道7路線の起点標にもなっている。
そして今回の旅である旧道街道の起点でもあります。
日本橋と麒麟像
そもそも日本橋とはいつ頃出来たのか。
そしてその名の由来は?
徳川家康は慶長8年3月3日(1603年4月14日)に江戸幕府を開いたわけだが、 寛永中後期の三浦浄心『見聞集』によると、日本橋は、慶長8年(1603)に、徳川家康が江戸大普請で江戸の町割を新たに行った際に、新しく架橋された[1]。橋の名前は、日本国中の人が集まって架けたことから、日本橋と名付けられた[2]とか、特に名前は付けられていなかったが、不思議と皆が同じように「日本橋」と呼ぶようになった[3]、と説明されている。
Wikipediaより引用
現在の日本橋は1911年(明治44年)に完成(竣工)したもので、技術的にも意匠的に優れた明治期を代表する石造アーチ道路橋であり1999年(平成11年)に国の重要文化財指定を受けています。
おそらく有名なのは麒麟像かと思いますが獅子の像もあるんです。
獅子像には「守護」を司る意味もあり、これは東京市(現在は東京都)を守護するという意味でおかれたようです。
ちなみに右足にて押さえつけている紋章は東京都の紋章です。
こちらは麒麟像になりますが、そもそも麒麟って何かというと中国神話に登場する動物の1種です。
少し前に大河ドラマで「麒麟がくる」という明智光秀を題材にした放送がありましたが、戦の無い太平の世や仁に基づく政治を司る君主の前に現れる等という逸話があります。
幼いころより秀でた才能を持った子供を麒麟児(きりんじ)と称しますね。
さてこの日本橋に居る麒麟は本来の麒麟とは少し違う部分があります。
それは背中に生える翼の部分にあります。
本来の麒麟には翼は生えておりませんが日本橋の麒麟には生えている・・・なぜか?
それはこの東京日本橋から広く世界に飛び立っていくようにとの願いが込められている様です。
1911年頃の日本と言えば日清・日露戦争を戦い抜いて若干ブイブイいわしている時期ですね。
そんな時代背景も関係あるのかと妄想が捗ります。
江戸歌舞伎発祥の地
現代日本においても歌舞伎は多くの人々によって楽しまれていますね。
そんな歌舞伎発祥の地は東京都中央区京橋1丁目のあたりでこの碑が立っている場所とは少し違っていたようです。
江戸歌舞伎を盛り上げたのは猿若勘三郎と言うらしく猿若座という芝居小屋を設けて猿若舞を披露していたとか。
人気に火がついて将軍家に招かれ江戸城内にて踊りを披露したこともあったとか。
江戸時代というと「火事と喧嘩は江戸の華」なんて言う言葉があるようにとにかく火事が多かった。
なので芝居小屋は何度も燃えては場所を移転して、日本橋近辺と銀座や浅草等へ次々と移転して浅草に定着し今に至るようですね。
猿若勘三郎の出身は生国尾州愛知郡中村(現・名古屋市中村区)であったらしく、最終的には本姓の中村をとって中村勘三郎・中村座とした訳ですね。
御成門・有章院霊廟二天門・増上寺
さてこちらは旧東海道から少し道筋をそれる事となるのですが、折角なので寄ってみようと思い立ち寄り道をしました。
こちらの門が御成門です。
御成門とは何か?
徳川家康を除く2代目以降の将軍のお墓がある増上寺に将軍が参内する際に通った門です。
そのまんまですね。
見ると所々傷んでおり直接見ると少しみすぼらしくも見えるくらいの門です。
むしろこんな門を通ってお参りしてたのかよって思うかもしれませんが、元はとても壮大な門であったと推測されます。
ただ現在は文化財にも指定されておりますので、安易に塗装を塗り直してしまえとか腐った金属部を新しく錆びないステンレス製にしてしまえって訳にはいかないわけですね。
それにお金もかかる事ですから。
ちなみに御成門に面した歩道の舗装が樹木の根っこで凸凹しております。
歩行の際は気を付けて頂いた方が良いかと思われます。
有章院霊廟二天門(ゆうしょういんれいびょう)は江戸幕府七代将軍徳川家継の死去後に八代将軍吉宗の命により建立された霊廟の惣門。有章院(ゆうしょういん)は 家継の院号。
実際はこの奥に霊廟が続いていたが現在は残存じておりません。
なぜかと言うと忌まわしき戦争によって焼失してしまったからです。
現在でも戦争が繰り広げられていますが歴史的な遺構や史跡が戦乱に巻き込まれて消失されることは非常に残念です。
二天門に向かって右が北方を守る多聞天・左が西方を守る広目天です。
こちらは御成門と違って2018年2月より劣化に伴う保存修理が行われ、銅板屋根、漆塗り、かざり金具などが緻密に復元されたようです。
さて私自身もかなり久々となりますが増上寺に到着しました。
おそらく小学校か中学校あたりに訪れて以来なので軽く15~20年ぶりくらいです。
こんなに壮大であったかなぁと思いながらワクワクして門をくぐるとですね・・・・・
なんかステージ設営してやがるぅぅーーーー!!!
雰囲気ぶち壊しだぜって訳で何か催し物が開かれるようで迂回ルートを取らないと本殿へお参りできないという状態でした。
時間が差し迫っている事もあったので残念ながら今回はお参りを断念。
次の機会があればその時に・・・・・
それにしても増上寺でライブイベント催すとかどんな奴らだよっと思ってみましたら。
あっ、ダメだこりゃメンツが濃すぎる(笑)
レジェンド級声優に加えて暴れん坊将軍のイベントだし文句言えねーや(笑)
※下段の奏者の方々もおそらく著名な方たちです。
400年の節目を祝うコンサートの様でした。(2022年10月2日)
まぁ私の中でしっかりオチがついて非常に満足でした。
高輪大木戸跡
さて芝大門を経由して東海道へ戻ってまいりました。
約2.5km程歩いた場所にあるのがこの高輪大木戸跡です。
そもそもこの高輪大木戸って何かというと江戸の治安維持の為に設けられた大きな木戸が設置されていた場所なんです。
現在は片側にしか現存していないんですがこれが反対側にもあり大きな木の門が設置されていたという事です。
この柵門は明六ツ・暮六ツに開閉していたようですが後に廃止され石垣のみとなったようです。
私もここに関してはあまり理解が無かったのですが大江戸の範囲というのは明確には1818年(文政元年)に決められたものが正とされている様で「旧江戸朱引内図」というものの中で江戸の地図に朱色の線で範囲を江戸と定めたようです。
その範囲で言うと南は品川宿江戸方見附辺りまでが大江戸の範囲となっています。
ただし上記の様に後に廃止されたとはいえ大木戸によって柵が開閉されていた事を考えると江戸の南の入口は高輪大木戸であったと考えてもよいかもしれません。
泉岳寺
さて高輪大木戸跡から300m程進んで道をそれると泉岳寺が現れます。
元々は桜田門(現皇居付近)に徳川家康の招きもあり送検された寺院でしたが火事で焼失した際に徳川家光の命で、長府毛利・笠間浅野・鹿沼朽木・丹羽・水谷の5大名により現在の高輪の地に再建されたようです。
こちらの寺院は波乱万丈な歴史がありその中でも赤穂事件がその最たる事柄と言えるでしょう。
再建にも関わった浅野家の菩提寺でもある泉岳寺は赤穂事件で切腹をした浅野長矩を弔ったことから、その他の有力大名家が菩提寺としての位置づけを廃したり絶縁するなど大きな影響を受けたようです。
その他にも当時の住職が浅野長矩の脇差や遺品を売って収益を得ていたなど批判が集まるなど問題があったようです。
赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城・松之大廊下で、高家の吉良義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討った事件を指すものである。 Wikipediaより引用
現在は赤穂浪士を赤穂義士と呼びお祭りを行うなどしてその軌跡を現代に伝えている。
境内の中はきれいに整備されていて近隣住民に方々の憩いの場となっている様でした。
品川宿到着。
品川宿に入る前に八ツ山橋を渡ります。
写真の深緑色の橋は京急線の線路となりまして、橋の下を山手線・京浜東北線・東海道本線・上野東京ライン・横須賀線・東海道新幹線が走っています。
鉄道ファンの方たちからすると聖地に当たる場所なんでしょうかね?
この日は撮り鉄の方々は居ませんでした。
ただ通過する電車を楽しそうに見つめる子供がおりましたが確かにこれだけの線路の数ですから圧巻です。
さてグーグルマップ上では品川宿傍示杭 是従南品川宿地内という杭が建っておりますがそこより少々手前の場所にまち歩きマップなる看板が立っております。
品川宿の範囲はこの八ツ山口~青物横丁(鮫洲)付近までであったという説明があります。
このマップによれば八ツ山口から始まり鈴ヶ森処刑場までが記載されていますが品川宿とその周辺名所という考え方ですかね?
それとも鈴ヶ森処刑場付近までが品川宿という認識?
ちなみに品川宿傍示杭 是従南品川宿地内という杭は撮り忘れました(笑)
品川宿とその周辺名所
- 問答海岸 PICKUP
- 土蔵相模(現在面影はない。長州藩士とゆかりが深い妓楼)
- 登龍 PICKUP
- 品川本陣跡聖跡公園(面影はなく公園として区民の憩いの場となっている。)
- 脇本陣跡 PICKUP
- 問屋場跡地(株式会社製菓実験社さんのビルに金属銘板が掲げられている。)
- 江戸時代の護岸跡 PICKUP
- 釜屋跡(現在はマンションが建つ。新選組土方歳三にもゆかりがある幕府御用宿。)
- 品川寺(少し変わった仏像を見ることが出来る。)
- 浜川砲台 PICKUP
- 浜川橋 PICKUP
問答海岸跡
問答河岸は、かつて北品川の海岸にあった波止場の名前。三代将軍徳川家光が東海寺に訪れた際、沢庵和尚がこの辺りまで出迎えて禅問答をしたという話が『徳川実記』に記載されています。
家光の「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」という問いに、沢庵和尚は「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と答えたと伝わります。
現在の問答河岸の碑は地元有志によって建てられたもので、実際の問答河岸はもう少し南に下ったあたりといわれています。 品川観光協会 様より引用
どうしても仕方がない事ではあるんですが、現在は埋め立て事業なども進んでいますので場所が違っていたり都市開発のあおりを受けていたりで遺構としては残っていない事が多いです。
ただこの問答海岸や護岸跡等を見ると品川宿が海辺の宿場町であったことが分かります。
問答の話に戻りますけど、徳川家光の問いに対してどの程度のスピードで返したか分からないけど一瞬でその返しが出来たとしたら沢庵和尚はとんでもない切れ者だ。
家光とはたくあん漬けの逸話も残っていて、その話は現代の自分たちにも戒めになるようなお話なので興味のある方は読んでみてください。⇒宗鏡寺 たくあん漬け
登龍
久々の史跡めぐりという事もありペース配分は滅茶滅茶で陽気も雲一つない快晴で暑いくらいだったのでかなり汗をかきました。
こうなってくると味の濃いものが食べたくなる訳です。
品川宿に着いたらお昼にしようと考えていたので前もって調べていたのですが、迷った結果こちらの登龍というお店に決めました。
12時45分ごろに到着して待たずに入店。
店内はテーブル席が7席程度ありまして女将さんが一人で注文から配膳・お会計まで賄ってました。
土曜日の昼間という事もあり入れ代わり立ち代わりお客さんが入店してきてとにかく忙しそうでした。
タンメン(単品) ¥580-(税込み)
頼んでから10分くらいで運ばれてきました。
この時すでに疲れ果てていたので最初の一口はもはや電流が走りました。
美味い!!
疲労感があり汗もかいているので余計にそう感じるのかもしれないがとても美味でした。
メニュー表は注文したら持っていかれてしまったので写真は無いのですがどの料理もリーズナブルな価格帯で周りを見渡してもどれも美味しそうでした。
品川宿へ立ち寄ることがありましたら是非立ち寄ってみてください。
登龍
〒140-0001 東京都品川区北品川2丁目4−16
定休日 日曜日。
脇本陣跡
脇本陣跡というくらいなのでその面影は残っておりません。
こちらは脇本陣跡を背にして目黒川にかかる品川橋を写した1枚です。
この川を境に北品川宿・南品川宿と名称が分かれていたようです。
これはこの後の宿場旅でも度々思う事ですが、現代社会に生きていると川には橋が架かっていることが当たり前だと思いますが、今より数百年前になると橋が架かっていないなんて事もざらでそれによって人々の往来が難しかったという地域もあります。
次の回(品川宿~川崎宿)で歩く事になりますが大田区六郷と川崎市をつなぐ大師橋が良い例で、昔は船を渡さなければ向こう岸まで行くことは困難であったわけです。
こちらの川自体はそこまで広い川では無いですが現代の当然は今より数百年前の江戸の時代ではありえない事だった訳です。
江戸時代の護岸跡
こちらは旧東海道より海側に向かって路地に入った場所にある江戸時代の護岸跡になります。
現在は埋め立てされており住宅地となっていますが、今より150年ほど前はこの辺りは海辺であったという事ですね。
こちらは一般の住宅の外壁として現在も残っている護岸跡です。
新築に建て直した際に残すか残さないかの葛藤があったようにも見えます。
ただこうして今の時代に当時の遺構を残してくれたことに対して地権者のかた感謝したいと思うところです。
浜川砲台
土佐藩が鮫洲抱屋敷内に設置したものを原寸大で復元したモニュメントで「30ポンド6貫目ホーイッスル砲」といようです。
3mほどの大きさでそれなりに立派です。
この当時はペリー来航で江戸が物騒になっている時期です。
ただ今も昔も日本人の底力と言いますか胆力と言いますか、1度目のペリー来航を機にこの品川近辺には沢山の砲台と品川台場(石垣づくりの砲台)が数か月で作られました。
中の1つがこの浜川砲台だった訳です。
おそらく当時の人々はペリーの黒船を見て恐怖したと共に江戸を守るために奮起した様が想像できますね。
浜川橋
浜川砲台から旧街道へ戻り少し進んだ場所に浜川橋があります。
この橋は別名泪橋(なみだばし)と呼ばれています。
浜川橋
立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「泪橋」ともいいます。
この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。
現在の橋は昭和9年(1934)にかけ替えられたものです。泪橋の由来
慶安4年(1651)品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたという事から「泪橋」と呼ばれるようになった。 品川区教育委員会
どんなに悪人でも親族が処刑されるとあっては涙を流したのか・・・・という考えもあるが、そもそも江戸時代の裁判で最も重要とされたのは自白であったという話があります。
捕らえられた後牢屋に入れられた際の牢屋内での慣習の酷さもあるが、後の取り調べも壮絶なものでとにかく自白を強要するような拷問があったと言います。
ですので江戸時代は冤罪率も高かったという話もあるくらいなので、冤罪によって死罪となった人も多かったのではないでしょうか。
そう言った背景を慮ると辛い思いをした親族も多かったかもしれませんね。
身体に異変が・・・・
普段殆ど運動もしない身体に突然20km近くの歩行を要求するのは無茶でした(笑)
浜川橋に到着した時には下半身どころか上半身にも痛みが出ており、ここから川崎宿を目指すのは無謀と判断し今回はここまでとなりました。
直線距離では11km程ですが色々な寄り道をした事で思った以上に距離が延びてしまったこと、当日が思ったより天候が良く気温が高かったことによる体力の消耗。
あとは自分の身体を過信しておりました。
悔しいと思いながらも諦めたときはホッとしてしまいましたが、自分自身の現状の体力がどれほど低いか痛いほど痛感いたしました。
これはこの先の旅も思いやられると不安の残る終わりとなりました。
立会川駅
おあつらえ向きに駅も近くにありまして帰路に就こうとしたところ、坂本龍馬の像が建っておりました。坂本龍馬を始め土佐藩とも品川の地はゆかりが深いのですが、とりわけ坂本龍馬が幕末を歩み始めた始まりの地と紹介されていました。
これでは龍馬に「だきな奴(だらしないやつ)じゃお前さんは」と𠮟られそうですね。
次回はここ浜川橋から川崎大師経由の川崎宿を目指します!
コメント