どうも、さかもつです。
2022年10月頭から週末に旧東海道を歩いて日本橋から箱根までを旅してまいりました。
ただ歩くだけじゃなくて名所や史跡等も回ったので割とタイトなスケジュールの中、8日間かけて箱根まで辿り着きました。
早速道中日記を書き連ねたい所なのですが、この旧街道には多くの遺構や史跡がそこかしことありまして、いったんこの記事で説明を入れておいた方が丁寧だろうと思い作成しました。
ちょっと説明長くなりますがこちらを見ていただくと私の道中記もそれなりに楽しんで見ていただけるのではないかと考えております。
それではまず導入からいってみましょう!
5街道。
早速ですが5街道をご存じでしょうか?
- 東海道
- 中山道
- 日光街道
- 奥州街道
- 甲州街道
おそらくどれかしら聞いたことのある名前ではないでしょうか?
現在でも使用されている幹線道路の名称になります。
歴史を辿ると律令時代まで遡る道もあり日本の歴史にその道ありと言っても過言ではないくらいの道です。
この5街道は江戸時代になって徳川幕府によって整備され明治になるまで多くの人々の生活の基幹となりました。
徳川幕府によって全国統一が成された後、朝廷は変わらず京にあり幕府は江戸に開かれました。
帝より征夷大将軍に任ぜられた徳川家康を初代に歴代将軍等による政(まつりごと)が江戸の地でなされたわけです。
政治の中心地である江戸と帝のおわす京をつなぐ街道を整備する必要があったので徳川家光の代に大規模な整備が行われます。
東海道
さてそもそも東海道と言えば現在は国道1号線を思い浮かべる人たちが多いと思いますが、
その認識は概ね正しいです。
ただ現在の道路は明治以前の東海道路線を踏襲してはいるが、明治から現在に至るまであらゆる思惑や事象を経て現在の姿となっています。
今回私が進んだ東海道は明治以前の物となり、現在の通称では旧東海道と呼ばれている。
東海道の歴史は非常に古く律令時代まで遡るのですがそちらは今回割愛して、戦国時代に関ケ原の合戦に勝利した徳川家康によって伝馬(てんま)制が敷かれ53の宿場が置かれることとなる。(初期は40前後と言われる。)
これが東海道53次と呼ばれる所以ですね。
※伝馬制:用の書状や荷物を、出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度。
よく出てくる名称一覧と解説。
さて上記でも書いた通り徳川家康が初代将軍として開かれたの江戸幕府になってから5街道は整備されます。
街道を機能させる為の設備が設置されていくこととなります。
その中でも良く出てくるであろう物を簡単に解説してみます。
- 宿駅(しゅくえき):伝馬制の駅と駅の事。品川宿から川崎宿等。
- 一里塚:江戸・日本橋を起点として一里毎に原則として道路の両側に五間(約9m)四方の塚を築きその上に榎・松・欅・杉・樅などの木を1本ないし数本植えたもの。1里=36町(約4Km)
- 追分(おいわけ):道が二つに分かれる場所。現在も交差点名等になっている事が多い。
- 木賃宿(きちんやど):「木賃」とはこのときの薪の代金、つまり木銭(きせん)を意味。米などの食料は自ら用意してかまどと寝床を借りる宿。
- 高札場:幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所。
- 助郷(すけごう):諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のこと。
- 立場(たてば):宿場と宿場の間にあって、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する場所である。
- 問屋場(といやば):宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった。
- 本陣:大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として指定された家。指定される家は、宿役人の問屋や村役人の名主など。原則一般庶民は宿泊不可。
- 脇本陣:本陣だけで泊まりきれない場合や、宿場で藩同士が鉢合わせになった場合に、格式の低いほうの藩が宿とする本陣。こちら場合によって一般庶民も宿泊可能。
- 見附(みつけ):見張りの番兵を置いた軍事施設。宿場の入り口にも見附があり、江戸側にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼ぶ。現在も赤坂見附・四谷見附等の名称が残る。
現在と反対の上りと下り。
明治以前の都は京都にありました。
天皇家の方角を「上」としていたので、見附の名称も江戸側にあるものを江戸方見附。
京都側にあるもの上方見附と区別されていたそうです。
江戸幕府側から見ると敵は西から攻めてくるという事を仮想しているので上方見附の作りは江戸方見附に比べると複雑であったとされています。
現在は旧江戸城があった皇居に天皇家はおられますので「上」「下」の話をするなら東京側が「上」となりますがこの辺りは今のとなってはどうでも良いことかもしれません。
道路の上り下りについては法律で道路の起点を上りと定められているようなので、後々ご紹介する日本橋~品川宿編にて日本橋に登場する「日本国道路元標」が主要7国道の起点となります。
旅のルール?というか考え方。
今回の旅は宿場間にある史跡や遺構を楽しみながらの旅になるので基本的には江戸時代の人々が進んだペースとは全く異なります。
江戸の人々が旅行やお伊勢参りに行く際は1日約30km程歩いたと言われています。
東海道の起点は日本橋ですが仮に日本橋から30kmと言うと現在の神奈川県保土ヶ谷区にあった程ヶ谷宿くらいまでは歩いていたかもしれません。
こうなるとただ歩くだけの旅になってしまうので宿場間にある史跡や遺構を楽しみながら進む様にしました。
現在と違って夜の明かりは月明り程度なのでとてもじゃないが夜道を行くなんてのは危険が伴ったことから早朝日の出とともに出発して日の入り前に宿場に到着する様に調整していたとか。
このことに倣って出来るだけ午前中早めにスタートして日の入り前に目的の宿場に到着する様にスケジュールしました。
※初っ端自らの運動不足のせいで途中で終わる事となりますが・・・・( ノД`)シクシク…
今回の旅の考え方。
私自身東京の生まれで現在も東京都内にて何とか生きておりますが、公共交通機関にしろ自身が所持している自家用車・自転車等、移動手段は溢れかえっておりますがとにかく歩く事に固執してみます。
そもそも車移動は味気が無いですし、なにより突然現れる遺構や史跡に対応できないのと当時の人々の感覚を出来るだけ感じ取るために移動手段としての現代の利器は基本的に使用しない方が良いと考えました。
さらに昨今は「ググレカス」なんて死語と言わんばかりに何でもネットで調べますし何でも知りたい結果が出てきますよね。
当然旧東海道を気軽に楽しむのならグーグルマップのストリートビューで十分ですし、物好きがYouTubeに動画を挙げてくれています。
ただここに関しても直接その場に身を置いてみて分かることもあると思ったんですよね。
何しろ知識量は十分にあると思うんですけど実地経験というか経験値が圧倒的に不足している気がして。
あとは最近よく日本人による日本下げの発言とかを耳にすることが増えました。
本当にそうなのか?日本はオワコンなのかって。
実際そんなことは無いと思ってますがその根拠はって言われると特に言い返せませんけど(笑)
この旧東海道1人旅を通してそんな日本の現状や歴史観を知って、自身の知的好奇心を高める事が出来れば良いなと思っております。
※これを執筆時には三島まで行ってしまっておりますが(笑)
最後に。
出来るだけ分かりやすく見ていただけるように写真も多めに載せたいと考えておりますが、逆にごちゃごちゃしちゃってるなんて事もあるかもしれません。
何か気づかれた点等ありましたらコメント等でご指摘いただけますと幸いです。
それでは更新を進めていきたいと思います。
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