どうも、さかもつです。
今回は旧東海道の旅3日目になりますが川崎宿から神奈川宿を目指して歩みを進めてみようと思います。
道中多くの見どころがありますのでそれなりに時間を考えながら旅路を急ぐこととします。
この日は前回の川崎宿から1週間たった10/15(土)
天気は曇り時々晴れの様な感じでしたね。
少しずつ空気が冷たくなっていく季節ですが太陽が出てしまうと途端に夏日になったりするので調節が難しいですね。
真夏に街道旅なんてやっていたら場合によっちゃあ熱中症になる可能性大いにありますから、それに比べたら幾分もマシですがね。
旧東海道の旅 3日目 川崎宿~神奈川宿
今回の距離は10.7kmと短くなっていて割と余裕で踏破してしまうんではないか?と期待が膨らむ一方見どころ満載道行となっているので寄り道が過ぎると時間が厳しくなる危険性が十分にあります。
ただ今回で3回目なので事前に立ち寄って見物する場所と素通りする場所はしっかり選別していったので、あとは自身の体力との勝負です。
川崎宿おさらい
3日目をスタートさせて少し歩いたマンションの玄関口にこんなものがありました。
当時の川崎宿を描いたものですね。
拡大してみましたがこちらは六郷の渡しから多摩川を渡ってすぐの江戸方見附側。
こちらは京方見附付近。
うっすら赤字で現在地と書かれています。
この地図を見ても分かる通り宿場町は基本的に途中で意図的に道を曲げるような作りになっています。
こちらの川崎宿の地図を見ると2回街道が曲げられているのが分かると思います。
これにはある理由がありました。
まず東海道は江戸期における重要な街道でしたから、もし戦が起きた場合はこの街道を上って敵が江戸に攻めてくることを幕府は想定しなければなりません。
そのため宿場町は通常は人々の往来を助けるための物でしたが、戦が起きれば軍事拠点に早変わりする様に設計されていたようです。
道を曲げる事によって先の先まで見通すことが出来ないようになっています。
これは城の入口に造られた桝形門と同じ考え方の造りとなっています。
見附とは本来お城の出入り口の防衛施設を指しますが各宿場には江戸方見附と京方(上方)見附が置かれました。
なんてこったい!!!
風情もへったくれもねーぜ!
ただこの写真シュールで結構気に入ってます。
小土呂(ことろ)橋の親柱を撮ったんですがビールが置かれている辺りがなんとも川崎らしい(笑)
スタートがそれなりに早かったのでそこかしこ川崎らしい風景が広がっておりました。
川崎宿~神奈川宿までの主な史跡と遺構
- 小土呂橋跡
- 川崎宿京方入口
- 芭蕉の句碑・地蔵尊
- 八丁綴・無縁塚 PICKUP
- 夫婦橋跡
- 横浜熊野神社
- 市場の一里塚 PICKUP
- 箱根駅伝「明日へ走る」像
- 鶴見川橋 PICKUP
- 鶴見橋関門旧跡
- 寺尾稲荷道道標
- 鶴見神社 PICKUP
- 身禄道
- 鶴居堂跡
- 総持寺 PICKUP
- サボテン茶屋の碑
- 国道駅 PICKUP
- 鶴見川河口干潟
- 道念稲荷
- 庚申供養塔
- 生麦事件の碑 PICKUP
- 東子安一里塚
- オランダ総領事館跡碑・神奈川通東公園
- 良泉寺
- 笠のぎ稲荷神社
昼食 ベアーズダイナー
- フランス領事館跡
- 神奈川宿高札場跡 PICKUP
- 金蔵寺・熊野神社
- 慶運寺
- 浄瀧寺
- 滝の橋と本陣跡
- 神奈川本陣跡・青木本陣跡
- 須崎大伸
- 神奈川宿歴史の道
- 大綱金毘羅神社 PICKUP
- 神奈川一里塚跡
- 神奈川の台と茶屋碑
- 田中屋 PICKUP
- 神奈川台の石門跡
八丁綴・無縁塚
ここは京急線の駅「八丁畷駅」にある無縁塚。
そもそも八丁畷って読めますか?
普通は読めませんよ。
八丁堀なら聞いたことありますが八丁畷なんてのは聞いたことが無い!
そろそろくどいですね。
こちらは「はっちょうなわて」と読みます。
畷とは田のあぜ道・田んぼ道・田の間の道などの意味があるようです。
ちなみに八丁は約870mの意がありおよそ870メートルほど畷が続いていたという事でしょうかね。
明治時代の地図をみるとこの地域は東海道の並木道を挟む様に田んぼがあります。
少し上に戻って川崎宿の地図を見てみてください。
さてそんな八丁畷の駅のたもとに無縁塚が安置されています。
なぜこんなところに無縁塚があるのか・・・・。
川崎宿でお亡くなりになった身元不明の人々をこの辺りで埋葬していたのではないかと言われています。
川崎宿は多摩川が近い事もあり水害も多かったようです。
さらに江戸時代と言えば火事や地震・飢饉・疫病と言った災害も多かった時代です。
道端で人が倒れて無くなっている何て光景が当時は割とあったのかもしれません。
今は再開発されてマンション等が立ち並んでいて畑何てありませんが、そう言った工事の中で多くの人骨が出土したそうです。
気味が悪いとも取れるかもしれませんが、東海道というメインストリート沿いにはこういった歴史が割と多いです。
悲しい歴史ではありますがそれだけ日本の歴史は深いという事ですね。
市場の一里塚
江戸から5番目にあたる一里塚。
一里塚の役割については里程の目安や人馬の休息のために置かれました。籠や飛脚の運賃の目安にもなったと言われている。
確かにここまで一里塚跡は地図上でもあったのですが、しっかりと現存しているのはこの市場の一里塚が初めてですね。
本来は道を挟んで対になるように設置されていた一里塚ですが現在は片側のみが残っているもしくはどちらも残っていない事の方が多いですね。
ここから先三島にある錦田一里塚は当時の姿を残しており国の指定文化財となっている。
看板にも書かれているように9メートル四方に盛土されてそこに目印となる樹木が植えられました。
榎=「エノキ」と呼ばれる木が植えられることが多く、強固な根を張ることから選ばれたと言われています。
ついで松が植えられることが多かったようです。
鶴見川橋
市場の一里塚から歩みを進めると眼前にはアーチ状の橋が見えてきました。
鶴見川にかかる鶴見川橋です。
元々は釣海橋と呼ばれていたそうですが、こちらの由来もしっかり徳川家康が絡んだ逸話が残っております。
家康が江戸に向かう道中この橋から鶴の群れを見たところ「めでたい事なのでこれからは鶴見橋と呼ぶように」という鶴の一声で鶴見橋となってしまったそうな(笑)
江戸から上方に向かって歩みを進めると最初に多摩川を渡る事となるが前述のとおり洪水で橋が流されてしまってからは舟渡となった為、日本橋の次にわたる橋としてはこの鶴見橋が2つ目という事になっていたようです。
天候は曇天という事もあり説明版のように大山も箱根連山も見えませんでしたが、そもそも天気が良くても見えるか微妙です。
当時とは違い周りには大きな建物が立ち並んでいますからね。
風光明媚な景色も楽しみたかったですが時代の移ろいの中で今は違った見え方になっている訳です。
新たな時代の上書きを見ている様でこれはこれで一興です。
鶴見神社
旧東海道を進んでいると鶴見神社の参道が見えてきました。
ただネタバレをすると、ここより手前の所から鶴見神社へ到着してしまいこの参道は通ってません。
ここから先の道行でも裏口みたいな所から到着してしまうなどグーグルナビを進むと度々起こる事象です。
この鳥居の横の道から到着しちゃいました(笑)
人が映り込まないように写真はとっているつもりですが引っ切り無しと言う程ではないにしろ参拝に来られる人が多く致し方なく後姿を頂戴いたしました。
「これ私!画像消してください!」って事であればコメントください(笑)
ごつごつした石の上に立派な狛犬が。
東海道沿いには神社仏閣がとにかく多いです。
これは徳川家康が神社仏閣を街道沿いに招致することを奨励した何て話があります。
このことから旧東海道沿いにある神社仏閣の狛犬や建造物は当時の面影を残す遺構であることが多いです。
こういった建造物には製作年数が刻まれている事が多いがこちらの狛犬は分かりませんでした。
鶴見神社は非常に歴史の深い神社の様でその歴史は約1400年前まで遡るようです。
鶴見神社と言う名になったのは大正年間という事で割と最近の様ですね。
昭和のころに弥生時代にルーツを持つ土器等が発掘され1400年前よりも前からある種神域としてこの地に根付いていたのではないかと考えられ横浜・川崎地域では最古の社であると立証されたとホームページに書かれております。
総持寺
日本曹洞宗は中国の禅宗をルーツとする宗派です。
寺院の数は14000を超える。
普段何気なく生活していると寺院が現れる事があると思うが、そんな折宗派まで確認して見る事はあまりしてこなかったが今後はよく観察してみることとしよう。
ちなみに寺院数のランキングでは・・・・
- 1位 曹洞宗
- 2位 浄土真宗本願寺派
- 3位 真宗大谷派
- 4位 浄土宗
- 5位 日蓮宗
大きな常夜燈が2つあったのですが写真では1枚しか映っておりませんね。
これには理由がござまして・・・・・。
何故か分からないのですがインド人風の女性がなぜか常夜燈に腰かけておられまして、よじ登ったのか・・・・そもそもよじ登って良いのか分からないんですがどうなんですか????
参道にもそれなりに人が居ましたが特に誰も気にかけることなく歩いていたのでまさか自分にしか見えていない・・・?
相当インパクトがありましたがこんな世の中ですしプライバシーの観点から常夜燈2対でとることを諦めました(笑)
いや、案内図でかすぎぃぃ!!
ってくらいでかい案内図でございます。
とにかくこの総持寺の建物は立派でしてスケールが相当でかいです。
曹洞宗の総本山にふさわしい風格とでも言いましょうか。
大祖堂へ向かう途中渡り廊下の様な所を抜けるのですが、写真の様な廊下が左右に伸びていまして日本昔話に総持寺が出てきたらおそらく小坊主たちが雑巾がけしていた事でしょう(勝手な妄想です)
と言いますこれだけ長い廊下ですと小坊主で無くても雑巾がけをしたくなりますよ。
普段から綺麗に手入れされているのか廊下が光っております。
こういう風景を見るとどうしても頭の中で「がんばれゴエモン」と言うゲームの音楽が流れてきてしまう・・・・・わかる人いますかね?(笑)
写真にセンスが感じられませんが大祖堂です。
後々知ったのですがこちらは高祖大師・太祖大師・二祖国師・五院開基の尊像及び独住禅師のご真牌が奉安されているようで、本堂かと勘違いしておりました。
私が立ち寄らせていただいた時期は2022年10月ですが本堂と言いますかご本尊が祀られている仏堂は外装工事中で、尚且つ時間が無かったためスルーしてしまったのです。
次回訪れる事があればしっかり全て回りたいと思います。
こちらの総持寺ですが15万坪と言う広大な敷地でしてゆっくり見学とお参りをさせて貰ったとしたら結構時間が必要かと思います。
元々は石川県輪島市門前町に開かれ明治31年(1898年)に火災で焼失し、明治44年(1911年)に横浜市鶴見の地に移転。
歴史としてみると明治期なので新しく建物も近代的な作りとなっています。
立地は京急鶴見駅と花月総持寺駅のちょうど中間に位置しているので歩いて10分くらいで参道に到着できますからちょっとした歴史探訪の旅の行き先には良いと思います。
国道駅
読んで字のごとく「こくどう」駅です。
目の前を国道15号が走っているのですがこちらは元々京浜国道と呼ばれておりました。そちらとこの鶴見線の交点に当たることが駅名の由来となります。
1930年に開業して以来殆ど手付かずの状態のまま今に至っている様です。
いたるところヒビは入っておりますし今にも崩れそうです。
横浜市に残る昭和の遺構。
木でふさがれてしまっている場所は元々商店や飲食店が入っていたのでしょう。
最後まで頑張っていたと思われる居酒屋もコロナの影響か閉店してしまったようでした。
無人駅になります。
ぽつんとSuicaの読み取り機が置かれています。
トイレは一応ありますが男女兼用です!
子供のころ東名高速の古いパーキングのトイレが壁に向かって放尿するタイプだった記憶があるんですが、このトイレはその名残に小便器を設置した感じなのかな?
なんか懐かしくもあり自らの年齢を感じました(笑)
ネットに覆われている壁にいくつかの穴が開いておりますがこれは太平洋戦争末期に本土空襲の折、時の連合国軍機による機銃掃射の弾痕跡と言われています。
生々しいですね。
東海道の旅ですから江戸時代頃を中心とした遺構を目にすることが多いと思いましたが割と身近なところに近代の遺構があった訳です。
時が経つにつれて戦争の傷跡は消えていきます。
新しくなるのは良いことでもあると思いますがこうやって現代に当時の面影を残し伝えていくことも重要な事ですね。
生麦事件の碑
生麦事件の碑と偉い真新しい看板と整備された施設が現れました。
現在はこの生麦と言う場所は横浜市鶴見区にある地名ですが当時は武蔵国(むさしのくに)生麦村と呼ばれておりました。
なんとなく武蔵=東京 相模=神奈川と言うようなイメージがありますが違いますね。
相模国=神奈川はほぼその通りですが、武蔵国は思った以上に大きいです。
旧東海道の旅をしていると割と同じような旅をしている人が居る様でこちらにも先客の方がおりました。
自分としては割と妄想に浸りたいタイプなので、出来るだけ邪魔をしないようにしています。
生麦事件(なまむぎじけん)は、文久2年8月21日(1862年[1]9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主島津茂久の父・島津久光の行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件[2]。
尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから、文久3年(1863年)7月に薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が勃発した。引用 Wikipedia
結果的に薩英戦争にボロ負けすることになる薩摩藩でしたが、その後は逆にイギリス等の列強に近づき近代兵器を拡充することで力を増していきました。
同じく長州藩も外国と小競り合いを起こして手痛い思いをしていたことから、これまでの軍装では異国に打ち勝てないという事に真っ先に気づいた2藩でした。
結局この生麦事件が日本の近代化をより一層進める事となります。
この事件は結果的に言語の違いや文化の違いによって起こったことで、残念ながら亡くなったイギリス人が居た訳です。
そう考えると今はスマホがあれば即時翻訳も出来ます。
そうでなくても友好的に有ろうとする気持ちが互いを理解する努力に繋がる事によって無為な争いが減るのではと考えるところです。
しかしこういった考え方は現代人の傲慢なのかもしれません。
当時の人々からすれば大柄な外国人は恐ろしく見えたでしょう。
はっきり言って得体の知れない者なわけですから。
明治期に入って建てられた石碑。
老朽化して崩れている部分があるので触らないように。
生麦事件が起きた現場は先ほど紹介した国道駅側、いわゆる石碑が建っている場所より江戸方面側の東海道で起きたようです。
そしてこの石碑が建っている辺りが無くなったイギリス人が馬上から落馬し止めを刺された場所と言われています。
引用にあるWikipediaの中に生麦事件について当時の列強での報じられ方が少し意外でした。
日本とは何たる野蛮な国か!けしからん!的な反応かと思ったら割と礼節を重んじなかった被害者を批判しているんですね。
これは今よりも身分制度がハッキリとしていた事が由来するかもしれません。
当時の大名と言えば相当高貴な立場であった訳ですから。
外国人じゃなくても行列を横切れなんて事があればおそらく切り捨てられたはず。
そしてすぐ横にはキリンの工場があります。
ビール工場見学で有名ですね。
全然以来ない情報ですが自分は麒麟のビールが一番好きです。
ベアーズダイナー
ハンバーガーがでかい!美味い!サイコーーー!!な感じのお店です。
何たる失態・・・・写真撮ってないじゃん!!!
こちらのベアーズダイナーは10年ほど前から東神奈川駅のすぐ近くにて美味しいハンバーガーを提供しているお店です。
実際の所こちらに来るのは初めてだったのですが、急遽テイクアウトのみと言うことで店内で食事を取ること叶いませんでした。
店内もおしゃれな感じでして貸し切りパーティーやライブなんかも定期的にとり行われている様ですよ。
ただその為営業時間が結構変わりやすいみたいなのでTwitterをチェックしてから来店することをお勧めします。
どうでも良い話ですが自分ベーコン大好きなんですよね。
なのでベーコンバーガーにしました。
箱がなんか格好いいじゃないですか。
英語が弱すぎる自分でもHave a nice dayは読めます(笑)
東海道を旅してベアーズダイナーで昼飯のハンバーガーを食べる。
もはや十分良い1日でしたって感じですが旅はまだ終わりませんので近くの反町公園で食します。
こんな感じです。
もっと美味しそうに撮らないと逆に迷惑かけちゃいそうと思いながらも折角撮ったのでやっぱり載せてみます。
こういうところのハンバーガーは味が濃いんじゃないかと勝手に思っていましたがそんなことも無く、お肉のうまみとベーコンの味が絡み合って美味しかったです。
ハンバーガーも美味しいしお店の雰囲気もさることながら女将さん(皆さんはマダムと呼んでいる様です)が名物ともいわれています。
店内で食事を取れなかったのであまり名物感を感じる事が出来なかったですが明るくて快活な人柄の印象でした。
神奈川宿高札場跡
昼ごはんも食べ終わり高札場跡を目指します。
横浜市神奈川地区センター体育館の横に復元された高札場があるとのこと。
高札場なんてものは当然見たことが無い為楽しみに歩いていると突如松並木が現れました。
ここから先の東海道にも松並木と杉並木が良く現れますが、旧街道のシンボルと言っても過言ではありません。
余り掘り下げられていませんが品川宿にも松が所々植えられており、存在感を放っておりました。
こちらの松並木も何か特別な場所へ誘われている様な感覚に陥ります。
そして現れたるは高札場。
この高札場跡は復元されたもので本来はもう少し間口が広かったようです。
主に幕府からの法度や掟などを庶民に知らしめるために設置されていたようですね。
現代のように新聞・ラジオ・テレビ・スマホと言った情報収集をするツールは当時はありませんでしたから、重要な施設としての役割を果たしていた訳ですね。
元々の高札場はこの施設よりも大通りに少し向かった場所にあったようです。
現在の神奈川警察署のあたりのようですね。
現国道15号が走っている場所に旧東海道も同じくありましたので、やはり人の往来が多い場所に設置されていたようです。
神奈川県にある宿場もしくは宿場付近の人通りの多かった辻(つじ)には必ず高札場が設置されていたとのこと。
幕府や大名の存在を誇示するような内容や法度や掟を破ると大罪になるので遵守するようにと厳しく書かれていたようです。
当時はキリスト教(切支丹)を禁教としていたため密告する様に促す札も掲げられていたとか。
大綱金毘羅神社
さて高札場跡から歩みを進めてこちらは京急神奈川駅を出てすぐの青木橋交差点になります。
ここは国道1号と15号が合流する場所でもありますので交通量は多く、信号がなかなか変わりません。
青木橋の写真はこの坂道を登りきったところから撮ったのですが、分かりますかね?この勾配。
写真で見るといまいち分かりませんがここから見るととんでもない急こう配。
次の目的地である大綱金毘羅神社を目指してグーグルナビを片手に進んでいたんですがこちらの坂を上がれと言う訳ですね。
こんなに坂を上がっていかなければならないのかぁ・・・・疲労が出始めた身体に鞭を打って進んでいきます。
こちらは一つ上の写真で突き当りにある本覚寺の入口です。
白く石碑の様なものが木のたもとにありますが、あそこにはアメリカ総領事跡と書かれております。
江戸幕府が幕末に開国を行った際に列強各国がこの神奈川宿近辺に総領事館を置きました。
この辺りを取り持っていた神奈川奉行が別の場所を当てがいましたが、アメリカ側はそれを断り高台にあって海まで見渡せるこの本覚寺を総領事館とすることを要求したそうです。
寺を総領事館として使用するので賃料を支払うという契約の元総領事館は置かれたのですが払われなかったと言う話です。
この本覚寺以外にも神奈川宿にあるいくつかの寺は列強各国の総領事館として使用されたようです。
ちなみにこの本覚寺がある場所は元々青木城と言う城があったそうです。
現在は見る影もないようです。
少し調べてみると現在この坂下を国道1号線が走っていますが、元々は国道1号線が走っている辺りも小高い丘だったようです。
この本覚寺の高台の向かいに権現山城址と言う場所があるのですが元々繋がっていたそうです。
線路を通すために切り通したようです。
さて、どこまで上がるんだ・・・・と言うよりも転がり落ちそうな坂とはよく言ったもんですがここの勾配は尋常じゃないくらいですよ。
写真では伝わらない事も多いですがこれは写真でも伝わる過酷さだ(笑)
三宝寺と読みます。浄土宗の寺院ですね。
こちらは下から見ると崖からせり出したようなところにお寺があります。
さながら天空の寺院とでも言うのでしょうかね。
むしろなぜここにこんな形であるのか不思議です。
屈強な基礎の上に寺院が建っていて、RPGゲームが好きな人であればワクワクせずには居られない事間違いなしです。
とまぁこの辺りでグーグルマップが到着しましたと告げてきたんですが、三宝寺あたりでおそらく坂下の方なんだろうなと諦めつつも歩き続けてやはり違いました(笑)
グーグルマップはとても便利です。
ただ残念ながら入口なんかはあまり考慮されていないので裏手口に案内されてしまったりなんて事はよくあります。
今回のようにちょっと位置ずれして崖上に案内されることも・・・まぁでもこれも旅の醍醐味ってことで。
ちなみに神社は写真左側にある赤い屋根があるところが社務所ですね。
気を取り直して急こう配を下って参りました。
よくよく考えれば旧街道沿いにあるんだから道をそれた崖上にある訳ないんだと冷静に考えれば分かることなのに疲れてくると思考が回らなくなるんですね。
旅の終わり際にハッとする出来事が起きやすいのは疲れと気のゆるみですね。
ちなみにこの付近に神奈川一里塚もあったようですが現在は跡形もありません。
年季の入った狛犬がお出迎えしてくれました。
この先の神社では狛犬をよく写真におさめています。
左右どちらかの台座に製作年数が彫られているんですがよく見ると江戸期に製作されたものがたくさん残っている事に気づきます。
東海道を含む旧街道の近くにお住いの人からすると普通かもしれませんが、これだけ多くの江戸期の遺構が残っているのはやはり東海道が江戸時代の代表的な街道であったからでしょう。
とにかく東海道沿いの神社仏閣や何気なく安置されている道祖神は歴史的な物がとても多いですよ。
先ほど上から撮った場所を下から撮ってみました。
なんか幻想的な風景ですね。
ちなみにこちらのたもとには池があり龍神社・弁天社があります。
こちらも幻想的な風景だったので写真を撮りたかったのですが先客の方が熱心にお祈りをささげておりましたので今回は諦めました。
横浜駅からも歩いてこれるような場所ですのでお参りに来てみてはいかがでしょうか?
田中屋
安藤広重の袖ケ浦の説明書きが貼ってあるからここが田中屋か!っとテンション上がっていると違いました。
こちらは「料亭 滝川」という別お店でした。
ただ外観はとても立派で清潔感のあるたたずまいです。
こちらも料亭としては昭和22年創業という事で1947年から76年の歴史を持った老舗ですね。
お値段はお気軽に入れるような価格帯では無さそうですがグーグルマップの口コミでも高い評価を誇っていますので興味のある方は是非調べてみてください。
JR東神奈川駅を利用したことがある人は改札を出てすぐの所にこちらのカラー写真が飾られている所を見たことがあると思いますが、現在横浜駅がある辺りは元々は沼地や海上でした。
現在の風景を思い浮かべると上の絵はどこの辺りなのだろうかと混乱しますが、滝川の写真にも写っている道こそが東海道ですのでこの辺りを描いたものになります。
滝川から50m程進んだところにありますのが田中屋でございます。
こちらは文久3年創業(1863年)になります。
横浜後にある料亭ではこちらが最古ではないでしょうか。
文献を読んでみると先ほどの安藤広重が書いた袖ケ浦の絵にある上から数えて3軒目の「さくらや」という旅籠がこの田中屋の前身であったようです。
こちらの田中屋は坂本龍馬の妻おりょうが働いていた事でも有名です。
器量が良く、英語も堪能で肝が据わっていたことから外国人客にも一目置かれる人だったとか。
働いていた期間は2~3年ほどであったようですが、こちらを去った後も常連客からは語り継がれる人だったようです。
田中屋さんはHPがありましたので興味のある方は覗いてみてください。
老舗料亭ですからね‥‥私なんぞはボーナスが出ないといけませんわい!!
神奈川宿まで到着してみて
今回は川崎宿~神奈川宿までの道のりを記事にしてみました。
少しずつ当時を思わせる遺構が増えてきて歩いていても飽きませんでした!
と言っても国道駅あたりから神奈川新町辺りまでの間は特に何もなく20分ほどただ歩くだけの時間はありましたが、そこは神奈川宿まで到着してしまえば見ごたえのある場所が多かったですね。
もっと深堀してみていけば1日では足りないくらいの遺構が眠っているので旧東海道の旅を企画している人が居ましたら弊ブログも参考になれば幸いです。
この日で3日目ということもあり足腰も少しずつ長距離歩行に慣れてきたような気がします。
最終日には箱根路を踏破しないとならないので残りの宿場も気張って進んでいきます!
次回は神奈川宿~藤沢宿までを往きます!!
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